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人生の事件としての文学フリマ

「そうだ、文学フリマに参加しよう」


思い立ったのは、売りたい小説同人誌が手元に有ったからです。

この時点で私は同人歴ン十年の化石でした。
と言っても、20代後半~40代前半はWEBでのみ活動していて長らく「紙の本」は作ってはいませんでした。
その私が紙媒体に舞い戻ったのには色々深~い理由が――まあ、一言で片付けると「魔がさした」からです。
この時点で1000部の在庫がありました。いえ、100ではなく1000……「魔」……恐ろしい……

20代前半の頃の小説本のイメージは「売れない本」でした。
即売会で出しても、手にとってもらえても、漫画でないと、みんながっかりした表情で元に戻してしまわれる。
(なのに正気を失って1000部刷ってしまったのですが!)

それが!
今は、テキストオンリーの即売会が存在する!
なんて良い時代になったんだ、ありがたい!
もう、文字ばっかりだとがっかりされずに済むんだ!
(やったー! 1000部もきっとはけるよ!)

と勢い込んで申込み、出店しました。
初参加は、第二十七回文学フリマ東京だったと記憶しています。

満を持して搬入したのが、無名なのに1000部発注してしまった本
『奈落の王』

約20万文字、頁にして400超えの自立する分厚いウスイブックです。
内容は滅びと呪いに満ちたオリジナルのダークファンタジー。
執筆中、私は味覚を失い体重は激減、脱稿直後は声も出ないほど弱っていたという、
まさに「呪い」そのもののような作品

で、これが一般的な体験レポだと「飛ぶように売れた」とか、少なくとも「30部くらい売れた」とかなるところでしょう、がっ!

現実は甘くありませんでした。

出たのは一冊だか二冊だか……

所謂お誕生日席だったのですが、席の有利も働かず。頑張って描いた表紙にも立ち止まってももらえず、孤独な一日が終わり、山と積み上げた在庫を箱に詰め直し、涙をのんで家に返送しました。重かった、あのダンボール(涙

しかし、ここで挫折したままでいたら1000部の在庫を抱えたままです。
これが100部とかなら、逆に短気起こして捨ててしまったかもしれません。実際、過去に何度も不良在庫化した自分の作った同人誌を捨ててきました。
けれども1000部は捨てるに捨てきれません。多すぎて。

ここから文学フリマ地方行脚が始まりました。

地元である関西、京都大阪はもとより、福岡、金沢、広島、前橋へと遠征もしました。

性懲りもなく新刊を作って在庫を増やしました。

第四回文学フリマ福岡では、クトゥルフもの伝奇『かくも親しき死よ』発刊。

星辰が巡りクトゥルフが復活する時、地球の神々は黄泉の女神の力で対抗しようと試みる
という内容で
スペクタクルで大惨事です
完売済

売れ行きは相変わらず。新刊だからといって飛ぶように売れたりしません。
ですが、私はこの時は自分で気づかず運命の種を蒔いていたのです。

種が芽吹いたのは第三回文学フリマ前橋でした。

前橋は、私の好きな詩人、萩原朔太郎の故郷ということで、以前から一度立ち寄りたいと思っていました。
あの日、私は北関東特有のからっ風に吹き飛ばされそうになりながら会場に行き、運命が時を刻んでる音にも気づかず半日を過ごし閉会を迎えました。
事態が大きく動いたのは、閉会後の懇親会で、でした。

コロナ禍前の文学フリマでは懇親会で、自己PR兼ね、参加者同士親交を温めるのが常でした。
飲み会は苦手でしたが、ネームバリューの無い私はまずは「私という存在を知ってもらわねば」と、懇親会に積極的に出席するよう努めていました。

前橋の文学フリマは規模も小さく、懇親会も小ぢんまりしたものでした。
最初に自己紹介をし、後はビュッフェ形式で、思い思いに料理を取って飲食し、声を掛け合って、気が合えば語り合う。そういう会でした。

そこに居た男性は、頑丈そうな大ぶりの杖をついていたのが印象的でした。
自己紹介ではプロの小説家ということでした。
会話のきっかけはよく思い出せないのですが、「どんな話を書いてらっしゃるのですか」というようなことは、わりと初めのうちに尋ねた気がします。「今は妖怪の話を書いている」という返答でした。
あとは「幽霊の子育て飴」だとか「皿屋敷のお菊さんは、貞子の先祖と言えるのではないか」とか、そんな会話をして、不穏な話なのに妙に盛り上がりました。流れで住所を尋ねたら「京都」とのことでしたので、「近いですね。帰ったらまたお会いしましょう」と、名刺を貰って別れました。
男性には苦手意識の強い方だったのですが、彼にはなぜかそれは発動せず、楽しい時間だったと思えました。

その頃、私はルカ・グァダニーノ監督による『サスペリア』にハマっていて、一人でも何度か観に行っていたのですが、前橋から帰って間もないくらいのタイミングで、京都の出町座というミニシアターで解説付きで掛かるというので、名刺を頼りに先の男性にメールを送ったのです。
「一緒に映画を観に行きませんか」と。
『サスペリア』をより多くの人に布教したかったのと、幽霊話で盛り上がるような人ならホラー耐性が有るだろうと考えたのです。

出町座には「出町座のソコ」という喫茶コーナーがあるのですが、そこで待ち合わせました。
行ってみたら、彼の方が先に待っていました。
私は人の顔を覚えられない方なのですが、彼は杖を携行していたので、それが目印になりました。
声をかけると彼は、彼の著書を鞄から出して渡してくれました。『百鬼夢幻』という本でした。懇親会で言っていた「妖怪の話」です。
映画が終わって、解説コーナーも終わって、お茶をするには遅い時間でしたので串焼き屋で感想などを語り合いました。これも楽しい時間でした。

それからたびたび会うようになり、私は『百鬼夢幻』のお礼に、文学フリマ福岡で出した『かくも親しき死よ』を彼に献本しました。
それを彼はきっちり読んでくれた上にいたく気に入ってくれて、「小説家として嫉妬する」とまで言ってくれたのです。
最高の褒め言葉です。
嬉しいと同時に、てらいもなくそんなことを言える彼を「いい人だ」と思いました。

ちょうど、家での介護生活が終わって1年くらいの頃でした。
母が亡くなり、脳梗塞の後遺症で要介助5となった父は介護施設に入院し、取り残された私は気は楽になったけれども寂しくもあったのでしょう。
彼と次の約束をしては会うのが楽しみになっていました。一緒に映画にも行きました。

何度目か待ち合わせて会った時に、いつも待ち合わせに使っていた喫茶店で、「君と結婚したいと考えている」と言われて慌てました。
「結婚」なんて自分には縁の無い言葉だと思っていたのです。

当時、私は50歳。
常識的に考えて色っぽいイベントの起きる年齢ではありません。
子供はもう産めませんし、家事はまったく得意ではありませんし、性格にも難ありですし、いったいどこが良くって私と結婚だなんて。彼の正気を疑いました。
彼に私のことがどう見えてるか分からないけれども、私は、こんなにひどい女だよ。難有り物件だよ、ということをDMでも長々と訴えました。

家庭の事情もあります。
介護施設に入っているとはいえ、父という重荷を当時の私は背負っていました。もう間もなく亡くなるであろう父を背負って結婚なんて考えられません。

私は、私と結婚する人は不幸になると思ってましたし、彼には幸福であってほしいと願ってました。
なのに、彼は私と共に生きることが自分の幸福なのだと言うのです。
「僕が君の苗字になるから」「君は僕の生きる意味だから」とまで――

責任を感じてしまいました。
この責任から逃げられない、と思いました。

私が彼の「生きる意味」だとしたら、「生きる意味」に突っぱねられたら彼はどうなってしまうでしょう。
「結婚」より、突っぱねた結果の方が怖く感じられました。
「友達でいましょうね」とはかわせませんでした。
私は彼には幸せであってほしかったのです。

そして覚悟を決めました。

そう、彼が私の現在の夫なのです。文学フリマで私は、夫、橋本純と出会ったのです。

施設に居た父は、喋れなくなってはいたのですが、私が夫を紹介した時、上機嫌だったことを覚えています。
その後、コロナ禍で面会もままならなくなったのですが……

夫は私の家に引っ越し、山の中、二人で暮らすこととなりました。
結婚後、父の葬儀含め色々あったけれども、今は幸せだと思っています。

私の印象について夫に聞いたところ、懇親会時点で「気になる人がいるとは思ってた」けれど、決定打は『かくも親しき死よ』で、あれを読んだ時に「この人は誰にも渡さない、と思った」そうです。
「嫉妬する」と言っておきながら、「嫉妬」した対象を捕まえようとする気持ちがよく分かりませんが、彼の中では整合性はとれているようです。

アトリエサードの編集さんが、『奈落の王』を買ってくださったのは第四回の文学フリマ京都の時だったように記憶しています。
それからしばらくして、「原稿用紙50枚くらいの長さで何か書けますか」という打診があって、ナイトランドクォータリーVol.28掲載の「赤鰯」を書きました。

そして今年、令和5年3月、これは完売していた『かくも親しき死よ』に加筆修正し、初の商業単行本『かくも親しき死よ 天鳥舟奇譚』として送り出しました。プロとしての第一歩です。

この間に、皆さんもご存知のとおり、多くの地方の文学フリマがコロナ禍のあおりを受けて中止となり、思い出の前橋(夫の出身地で、だからあの時、京都から遠征していたそうです)も中止になったきりです。

運命の出会いは、ギリギリの「ここしかない」タイミングで起きました。

今も『奈落の王』の在庫はうんとこ唸ってますし、頒布のコツはさっぱりわかりません。
けれども、文学フリマは私の人生を変えました。
文学フリマに参加したことによって、私は伴侶を得、プロの小説家になりました。

これが、私が文学フリマを通して体験したことです。

※注意
文学フリマは本来、男女の出会いの場ではありません。
私と夫の場合、たまたま波長が合い、結婚に至りましたが、本当にたまたまなので、その種の出会いを期待して行かないでください。

小説本の作り方

同人誌の場合、編集・版組・装丁、何から何まで基本、自分でやらなければなりません。
アナログ入稿の昔は原稿台紙に打ち出しした本文を貼り付けていましたが、今はデータ入稿の時代です。
版組にはWordを使うのが一般的なようですが、私のPCにはOfficeはインストールされてないので他のソフトで対応しました。

・執筆から組版からPDFデータ作成までできるフリーソフト
TATEditor

・PDFデータ編集ができるフリーソフト
pdf_as

私が利用している印刷所では、小説でも「PSD形式」の入稿が推奨されています。
ですので、TATEditorで作ったPDFファイルをpdf_asで全分割して、PDFからPSDへの変換を行って完成原稿を作りました。

画像編集には、スキャナ購入の際に付いてきたフォトショップエレメンツと、フリーソフトGIMP2を用いました。

TATEditorでPDF出力した場合、自動でノンブル(頁数)が入るのです(ノンブルは完成原稿を作る際に必須です)が、本の本文最初の頁は3頁でなければならないので、1、2頁は空白頁を作り、pdf_asで分割して空白頁を捨てる、という方法で対処しました。

TATEditorとpdf_asが無ければ最初の一冊も作れなかったと思います。
便利なソフトを無償で提供してくださった作成者様に感謝いたします。

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