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夫の闘病記

「礼(仮名)ちゃん! 大変だよ! 脳梗塞なったみたい!」

夫に叩き起こされたのは2/1の早朝、5時過ぎのことでした。
聞けば、夜中から脚が痺れてきて腿まで痺れが上がってきたとのこと。
なんでもっと早くに起こさんのかいっ! 脳梗塞の処置は一分一秒を争うんやぞ! と、即119で「救急です」と手配を頼んで暗澹たる気持ちになっていました。
脳梗塞といえば、父が晩年これの後遺症によって寝たきりになってしまったことが思い起こされたのです。
この時点、まだ50代の夫も同じになってしまうのか、小説家なのに書けなくなってしまうのか。結婚してやっと幸せになれたと思ったのに、なんて呪わしい巡り合わせか。

まだ暗い道を搬送され、連れて行かれた病院で長い検査の後、「脳梗塞ではありませんね」と告げられ、安堵とともに狐につままれたような気持ちに。
MRIで見ても頭に梗塞の痕跡は見られないとのこと。
夫は持病として脊柱管狭窄症を患っているので、そちらから脚に障害が出ているのではないか、とのことでした。
最後にチラッと「稀にギランバレー症候群なんてのもあるんですけどね」
言った医師自身、「そんなことがあるわけはない」という口ぶりでした。
今思えば、「そちらの検査もお願いします」と食い下がるべきでした。
でも、後々になって判明しますが、この病院はヤブでしたので、この時点で判明して入院という事態にならなかったのは逆に良かったのかもしれません。

ひとまず脳梗塞の疑いの晴れた夫は「ああ、よかった」と呑気なものでした。よろよろしながらこの時は自力で歩いてタクシーに乗り込みました。

これからが地獄の始まりだとは、夫も私も知るよしもありませんでした。

脊柱管狭窄症から来ている症状ならば、京都府立医大の整形外科に継続して受診していたので、次の受診日に訴えて検査してもらおう、という考えでした。
もし悪化していて手術が必要となるなら、費用はどれくらいかかるかしら、と、私はお金の心配をしていました。それでも、手術で治るものならこの際手術してもらおうか、とも。夫は長らくこの病気で脚の痛みに苦しめられていましたので。

ところが――

次の日には夫は杖に縋らないと立てなくなってしまったのです。
自分の杖と、父が遺した杖の二本を使って「こうやったら歩ける」と、器用なんだかなんだか分からない危なっかしい歩行をしてみせました。
夫は陽気に振る舞ってましたが、まずい、と、私は思いました。一晩でこんなに悪化するとは只事ではないし、これ以上悪化しないという保証もありません(実際、日をおって症状は悪化しました)
このままだと介護が必要になる。
両親の晩年を看取った経験から、介護を外注することに躊躇いはありませんでした。というか、自分の非力は自覚してましたので、助けは絶対に必要だと考えました。
思い立ったが吉日。すぐに市役所に電話をかけ、介護相談の窓口はどこか尋ねました。この行動は自分で言うのも何ですがGJでした。
紹介された先はご長寿相談所で、本来は還暦にもなっていない夫は対象外なのですが、脊柱管狭窄症が介護対象に該当するということで、即日、様子を見に来てもらうこととなり、介護ベッドと歩行器の手配をしてもらいました。これには本当に助けられました。
夫の脚は日毎に力を失い、ほどなく、ぺったり座った状態からは立ち上がれなくなったからです。ベッドが無ければ、それだけで詰んでいたところです。

予約していた整形外科の診察には、タクシーに歩行器を使って乗り込んで行きました。日付は思い出せませんが2月上旬のことです。
先生は夫曰く脊柱管狭窄症の権威らしいのですが、ここまでの経緯に首を傾げ「そんなに急激に悪化するのはおかしいのだけれど」と、一通りの診察後、ひとまずは背骨全体の状態を見ようということになり、当日は検査枠が空いていなかったので、改めて予約し、この日は帰宅しました。

検査の日、2/12だったかと思いますが、前回と同じようにタクシーを玄関前につけてもらって行こうとしたところ、上がり框の段差がどうにも越えられなくてタクシーに乗れず。検査は時間に間に合わないのでキャンセル。先生に電話で相談したけれども、府立医大の整形外科にもベッドの空きが無いので搬送されても受け容れてもらえない。他の病院で検査だけでもしてもらったら、ということで、自力でタクシーにも乗れないので救急車で「脳梗塞疑い」の時の病院へ。ちなみに我が家で救急車を呼ぶと、ほぼ確実にその病院に運ばれるのです。地方医療の貧しさについて考えずにおられません。

この時点で夫は両脚の麻痺に加えて両手、顔面、喉にも痺れを感じており、腕と腰の痛みを訴えていました(腕はこの時点では「慣れない歩行器の使用による筋肉痛」だと思い込んでいました)

私たち夫婦にとって、最も長い夜になりました。

搬送された時点ではまだ夕方だったのですが、その後、とんでもなく長時間待たされたのです。
私は「多分、検査に時間がかかっているのだろう」「今頃、背骨丸ごとMRIで撮っているのだろう」と信じてロビーで待ち続けていたのですが、ようやく呼ばれて夫の傍らに行ってみれば、痛み止めの点滴をされただけでまだ何の検査も受けてないというではありませんか。そして、医師が来たかと思えばあろうことか「ここもベッドは空いていないから」早く帰れと言うのです。
こんな馬鹿な話はありません。
自力で玄関の上がり框を越えられない身体で病院まで来たのは「検査」を受けるためです。何もしてくれないなら、いったい何のために何時間も待たせたのですか。
「他の医療機関への紹介を」と頼んでも「時間が遅いから無理」と。
遅い時間になったのは病院が無為に長時間待たせたせいです。私たちが着いた時にはまだ明るかったのです。
受け容れられない、処置もできないなら、到着時点で他の医療機関に打診すればよかったではないですか!
このままでは外に出ただけ損になるので「せめて検査を」と食らいつき、ようやくCTに回されました。
CT後、「やはり脊柱管狭窄症だと思いますよ」と言う医師に「でも進行しているんです」と訴えると、「この病気は進行するんですよ」とにこやかに。
最初の受診時には自力で歩いて帰れた患者が、2週間経たないうちに立てなくなっているのに異常だとも思わない。
いや、多分、申し送りがされてなかったんでしょうね!
加えて、どうでも帰したいという強い意志が感じられました!

帰りに救急車は使えませんので、できれば介護タクシーを頼みたかったのですが、当たれるだけ当たってもみな営業時間外。使えるのは通常のタクシーだけでした。
病院でタクシーに乗車するのは看護師の助力でなんとかなりましたが、家に着いてからがどうにもならず(なにしろ私は非力なもので、立てない自分より重い人を背負うこともできなかったので)、結局、夫は門から部屋のベッドまでを這って戻ることになりました。
まだ寒い夜で、雪がちらついていたことを覚えています。
とても心細かったことを覚えています。

この後、介護支援の方に車椅子を手配してもらいました。

とはいえ、バリアフルな家の中、何箇所か歩行器を使わなければならない場所が有り、トイレもその一つでした。
頻尿なので小用のたびにトイレに行っていては大変。ということで、尿瓶を併用し、トイレへ行くのは大の時のみとしました。
尿瓶を洗うのは簡単な作業でしたが、大をもよおした時に車椅子に移乗させて押して行くのが大変で。
一度、間に合わず便器にたどり着く前に漏らしてしまい、便で汚れたトイレの床の掃除から、お尻の洗浄から、パンツ、パジャマのズボンの手洗いまでやってのけて、我ながら「よくここまで頑張れるたな」と驚き感心したものです。

15日、なんとか予約を取り付けた介護タクシーで京都府立医大の整形外科と家を往復。
本来使えないMRIを無理を押して枠を空けてもらい撮影。
先生の判断は、「やはりこんな急激な症状の悪化を見せるような状態ではない。原因は他にあるのではないか」
脳神経内科の受診を勧め、予約も取ってくれました。
帰宅後、トイレで夫が転倒。歩行器から車椅子に移動しようとした時でした。
「足が折れたかもしれない」と言うのを、あのひどい冷たい仕打ちをしたヤブな病院に連れて行かれるのが厭で、救急車は呼ばず、テーピングで応急処置をするにとどめました。これは可哀想なことをしたな、と、後になって悔みました。実際、本当に骨折していましたので。
とはいえ、骨折で入院したところで、あのヤブな病院では主症状の原因を突き止められず、誤診のまま放置されたのではないか、とも思えます。
夫も「あの病院には入院したくなかった」から結果オーライと言ってくれています。
幸か不幸か、麻痺がひどかったため、骨折箇所は全く痛くなかったそうです。

脳神経内科受診日までの日々、夫は脚だけでなく手にも力が入らなくなり、箸が持てなくなりました。
ペットボトル一つにしても私が代わって開けなければなりません。私の握力は右手で20無いくらいなのに、それ以下に弱っていたのです。

22日、京都府立医大の脳神経内科を受診。
打腱器で膝や腕をコンコンする先生。どうやら反射が起きないらしい。
握力を測ったら10を切っていました。成人男性なのに!
即「検査!」と筋電図をとることになりました。
筋電図の検査が、それはもう時間がかかって、私はTwitterで時間を潰そうとするも気もそぞろ。私の存在そのものを忘れられてはいないかと不安になり、検査室の前をウロウロしたりしました。
やがて夫を乗せた車椅子が出てくるや、「緊急入院」と告げられました。
それからバタバタと入院手続きをしたのですが、まず検査の結果報告。ギランバレー症候群の疑いが濃厚とのこと。嚥下障害の症状も出ていることから今後症状が進むと呼吸困難に陥る危険も有るということでした。
命にかかわるから緊急入院となったのですね。病床の空きを確保するのは大変だったようですが、なんとかしていただきました。

ギランバレー症候群は最初の救急搬送の際に「まあ無いと思うけどね」みたいなノリで口にされた病名です。
あの時正しい診断が下りていたら、その後の苦労も骨折も無かったでしょう。
その代わりヤブ病院に入院することに……いや、診断できていたらヤブではないことになるのかな……
そして京都府立医大の整形外科の先生はやはり優秀でした。自分の専門外の疾患もちゃんと見極め、バトンを渡すべき所に渡したのですから。

ともあれ、家庭での闘病はここで一区切りとなりました。

正直なところ、毎晩、寝てる間に良くないことが起きるのではないかと、目を覚ましたら夫の呼吸が止まっているのではないかと不安で熟睡できませんでした。
1日の早朝以降が夢で、目覚めたら元気な夫が居てくれたら、とも。
入院が決まって、全部が夢ではないことを受け容れられたし、少なくとも夜間不安に苛まれることは無くなりました。
不眠は、元から睡眠障害があったので改善しませんでしたが。

夫の入院後は、あまり語るべきことはありません。
(彼には色々あっただろうけれども)
何しろ、コロナ禍のせいで、行っても面会できなかったのです。
(洗濯物の交換に、何度も通いましたが)
そういえば入院中、夫は還暦の誕生日を迎え、私は赤いベストを贈ったのですが他に誕生祝いらしいこともできず終いでした。
この病気が無ければ2月には文学フリマ広島にも参加する予定でした(前夜まで、私は荷造りとお品書き作りをしていたのです)し、夫の還暦の誕生日祝いには温泉に行くつもりで宿も取っていたのです。
どちらもキャンセルになり、非常に悔しい思いをしました。

翌3/22、急性期は過ぎたということでリハビリのために地域病院に転院。
リハビリはかなり厳しかったようです。
それに必死で応えて頑張ってリハビリしていたようです。
3月末頃、入院先の病院から、夫が自力であぐらから立ち上がる様子、訓練用の空の浴槽に入って出てくる様子を撮った動画が送られてきて、私は「100点満点の200点」と返答しました。一度床までへたり込んだら立てなかった人が、低い椅子などのワンクッションもおかずに立てるようになっているとは、私からすれば期待を大きく上回る回復です。
これが決め手で退院が決まりました。
当初の入院計画では「2ヶ月」のリハビリ入院の予定だったのです。大幅に短縮できたことになります。

4/6、夫は自分の脚で歩いて我が家に帰って来ました。
まだ足の先に痺れが残っているのと、骨折した跡が痛むということで家の中でも杖が手放せませんが(発病前は外出時は杖をついていたけれども、家の中では杖無しで歩けていたのです)
それに、発病前より疲れやすくなっているようで、外に出ると帰ってからへばっていますけれども。

病気はしたくないものです。
今年の春は、この病気と共に去ってしまいました。
一年前には一緒に嵐電に乗って花見もしたのに、と、遠い目になってしまいます。
経済的にも痛手でした。
高額医療費制度も減免申請も使ったのですが、それでもなんやかやで30万ほど飛んでしまいました。
埋め合わせに私や夫の本が爆売れでもしてくれると良いのですが……

ギランバレー症候群というのは、年間20万人に一人が罹るか罹らないかの稀な病気だそうです。確率を言い換えれば0.02%
そんな確率を引き当てるなら、宝くじを当ててほしかったです。買ってませんけど。
鶏肉を生食するとなることがある、という話がありますが、うちでは鶏の生食を外食でもしたことは無く、何らかの感染症が引き金になるらしい、と言われても全く心当たりが無く、降って湧いた災難でした。
ともかく「最悪死ぬこともある」怖い病気です。
治癒はするのですが、何らかの障害が残るケースもあるそうです。
何に気をつけたら良いかわからない病気ですが、皆様お気をつけて。

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