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不適切「には」ほどがある。


さて、今クールのドラマは

やはり「不適切にもほどがある」

でしょう。ワタクス個人的だが。


このドラマは略し方なんかを

勝手にこうして呼ばせたいのか

「ふてほど」って記事が多い。


違うだろう。「不適切」でいいよ笑

「ふてほど」だと伝えたいメッセージ

ブレる気がします。不適切がキモで。


昭和と令和、常識として

まかり通ることが客観的に見て

こんなにも違うよ、と。


お互いに「客観的に」もう一度

このままでいいのか見直そう

みたいな気づきを与えようと。


若い人は年寄りたちの気持ちを

それは間違いだと正論で曲げられる

と思ったら大間違いですね。


ワタクスも若い頃は同じように

そう思っていましたが。

単純にそうではない気がします。


年をとってくると若い頃には

わからなかった気持ちや

想像はできたけど当時は

納得できなかったことが

ジンワリとわかってきます笑


それが年をとるということだと

改めて昔、親や先生などに

言われていた意味が時を経て

だんだんとわかるようになってくる。


結婚して親となったりするのでも

違った感覚が芽生えてくるのも。

立場が変わると角度も変わってみえる。


若い人には、すぐに納得できない事。

すぐに気付けないことに、多く含まれてる。

生理的に無理だとか、反射的な反応に。


たとえば、最初にみた印象で悪い人だ

っていう感じに受け取って批判する。


SNSなんかでドラマで演じるキャラが

嫌いだとか。その後ドラマが進んで

実は、いい人に見えて手のひら返し。


よく知らないまま反射的に近い感覚で

毛嫌いして、それを排除してきた。

なにもかも不適切になってしまった。


わかるでしょ?私たちの社会は

最初の毛嫌いですべて否定し排除。

これをどんな環境でも勧めてきた。


納豆嫌い、ナマコ嫌い、しいたけ嫌い。

どこかで食べられるようになる瞬間

食べる機会がなくなると絶対に訪れない。


悪とみなしたものを排除してきたら

こんなにも苦しくなったよ、日本は。

誰も笑わなくなった、怒ってばかりだと。


ほら、マジメなやつに従いすぎると

こうなるんだと、理解できたはずです笑


下品、不適切。排除してクリーンに

「した気がする」世界で生まれた人には

すぐには理解できないかもしれない。


だが、別の考え方を感じることで

そういうこともあるのか

気づかなかった。

ふざけて言ってただけなのか。


簡単に嫌ってもこっちがその時点で

わからなかったことも

たくさんあるんだなと。


こういうのは、実体験をしないと

検索して見聞きしただけでは

理解したとはいえないことです。



年をとると、わかってくる。

できていたことができなくなる

いつまでもついていく身も心も

余裕がなくなっていく。


それまでのやり方のほうが

慣れてて都合がいいし、

それでこれまでうまくやってきた。


紙で資料をくれ。

やり方がわからない。


人間がなかなか追い付けない

速度で進みすぎると上澄みの

キレイなところだけ拾い上げ

これがこれからは基準になると。


マジメなことは悪いことではないが

マジメでないことも悪いことではない。


全体としてはみんなでつくり

そしてみんなが、過ごす社会

なぜマジメ寄りの意見ばかり採用?


それはマジメ側に正当性があって

マジメ側が決める立場のポストに収まる。

マジメサイド主導で展開していくから。


マジメでないことは、ダメではない。

でもマジメでないことを見ると

マジメ側は自分がちゃんとしてるのに

なんで、できないのだと責める。


ここに同調圧力も当然含まれるが

全体がマジメで統率されていく

この怖さに抗えなくなっていく

なんか息苦しいなと感じながらも。


不適切「には」ほどがあるんですよ。

一見そう見えてしまうけど体験して

馴染んできて悪くないなと思える

そんな事も含まれていたはずなのに。


当然、昭和が当時は知らずにいて

理解していなかった部分もある。

不適切だったと改善されるべき

そんな事もたくさんあるが、コレ

逆もまた当然にある可能性がね。


不適切を片っ端から直して片付ける

キマジメにやってきたからこうなった。


こうなった責任はバランスが悪いから。

砂糖には塩が必要で、塩には砂糖が必要。

これを認めないと、まろやかにならない。


それを両者がそれぞれの立ち位置

経験則に基づいて、自分の価値観に

合わないだから否定するって方法を

両者がとってしまうと歩み寄ることは

できないんですよね。


この不適切にもほどがあるって話は

昭和の常識を不適切だという視点と

令和までの繰り返してきたことにも

間違っていた、捨ててはいけなかった

そういう両方の部分が混在してるよと。


平成、令和と重ねてきた常識にも

実は間違っていた事もたくさん

あると認めて直していこうよと。

これがドラマの真の狙いでしょうね。


不適切だと言って制限していく現代が

選択肢を広めたようで実は狭めてきた。


そして、人の気持ちのアゲサゲに対し

感情に対してのアプローチを拒んできた。


君の気持ちはどうでもいい。

与えたタスクをこなしてくれれば

あとはどうでもいい(関係ない)と。

こちらに迷惑かからなければと。


このスマートさは間違いだった?

実はリスクから逃げて自分だけは

泥を被らないようにしていた?


そういう小賢しい判断で全体を

大きくストレスで苦しめていないか?

気づいているなら私たち自身で

変えていく、動かそうよという。


おそらく誰かに決めてもらって

進むのではないことなんですよ。

自発的に自然と動けるマインドを

私たちは奪われてしまってるから。

マニュアルが、規則が法律がと。


でも変える時に障壁になるなら

飛び越えて進んでみないと

その障壁が間違いだったことにも

たどり着けないのではないか?


現代社会はこういう歩み寄りを

意図的に放棄してきた気がします。

だからこそ、私たちは意図的に

イヤな部分を認めて歩み寄りを

しないと始まらないのだと思う。


これはやろうと思えばできること。

不適切はやっぱり不適切でもあるし

不適切は不適切でないかもしれない。













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