「お化け遺伝子」の問題。


ちょっと時期がズレましたが、

せっかく書きかけたので最後まで

一応、書いてみたいと思います。


某有名アーティストがSNSで発した

意見が優生思想だなんだ、という問題。


シンプルに彼が言いたかったのは、

「優秀な才能」というニュアンスでしょうか。


そもそも彼の書いた文章の意味の解釈が

「文字の意味」から評価すると批判の的に

されてしまいがちです。


いいたいことの全体の雰囲気を

受け手側の私たちが、補いながら

理解して近づけていけるか。

ポイントはそこでしょう。


彼を好意的にみるファンのように

ポジティブに理解しようとしていく。

文字や字面だけじゃなくて

彼は何を言いたいんだろう?と考えて、

意識的に近づけていく方法。


「すぐに反応できる」社会に生きていると

忘れてしまいがちなこと。

誰かの立場になって話す、聞くというのは

本来、当たり前のことですよね。


このアプローチの違いによって、

まったく解釈が違う感じがするので。

いまいち伝わりづらいんです、あの文章。


「優秀な遺伝子」という方向へ

受け手がシフトして解釈し始めて

話をもっていくと「そっちの議論」に

落とし込まれていく。


そもそもすぐに優生思想だと言う人ほどの

知識を持っている人でなければ、

あの反応はできないでしょう?


なんか、知識の知ったかレベルの競争に

勝手に巻き込まれていく気配を感じる。


みんなが知るべきことだ!みたいなのも、

ちょっと遠くから自分たちをみつめると

なんかそこまで求めるのどうだろうか。


クラスの優秀な子がイキってきて

これ私、大事だと思うからみんなも

勉強して覚えて忘れないで!!

って言われるとキョトーンでしょ(笑)


押してダメなら引いてみな、の論理で

いま、みーんな押してばかりなんです。


こうであればいいのになぁという

素直な言葉の解釈を勝手に優生思想の

ほうへ引っ張っているのでは?


そういうのを○○っていうんだよ。

って持っていき方は

その知識のない人には

ちゃんと学んでからモノ言えよ、という

圧力が生じてしまう。


ひいては知識のマウント合戦に

引きずりこまれてしまうでしょ?

これマジメニンゲンの悪いところなんです。



反射的に反応すると

誰でも解釈のズレは生じると思う。

私たちは誰でも反射社会に生きている(笑)

考えてみたらそうだ。


その反射的な反応は瞬時に熱を帯びる。

手で持っていられないほど熱いから、

すぐ他人にポイっと渡してしまうんです。

SNSの連鎖する反応の怖さですよね。


優生思想という言葉に反応して、

本来の趣旨をみないまま、

あるいは優生思想のほうへ

バイアスがかかってしまい、

ミスリードされるような感じになる。


あつあつおでんを手の上に直に乗っけられ、

ずっと手に乗せてると熱くて

手の皮がやられてしまうから、

接着時間を少なくしようと

「あつッ!」って手の上でおどらせる。


それだけでは耐えられなくて、

「面白がって」すぐ近くの他人に渡す。

熱いのってちょっとなんとなく、

「オモシロ感情」になるんです。


また近くの他人に渡す、次から次へと渡す。

そうやって全体が瞬時に熱を帯びていく。

面白がる人が尾ひれをつけるんですよ。


彼はアーティストさんですからね。

彼にみえる景色を大衆レベルまで

引き下げて伝えてナンボ、な世界。


という側面は確かにあるんですが、

あまりに安易に字面で解釈するのも

どうなのかとワタクシは思いますね。


昨今はあまり意味をくみ取れずに

すぐ反射的に反応して

独り歩きさせて面白がっている。


「才能というみえない評価を

最大限に発揮できる環境が

うまくつくれたらなぁ」

という率直な思いではないかと思った。


才能をうまく導けるような社会ではない。

私たちの生きる現代社会ではね。


平等な機会があれば、もっと良くなる。

あるいは才能に光を当てて最大限に

力を発揮して開花させることができる

環境を改善させたい、そういう余地が

あるのではないか?という主張。


人間の才能の開花には

そういう個人の環境という問題も

一生を左右するくらいつきまとう。


既存の才能と比較して

判断できるものもあれば、

既存のルールで比較しても

測れないものもある。


スポーツ等の肉体系は

確立したルールのなかで

競い合うという前提がみえているから、

比較、評価しやすいのだと思う。


才能と環境があって、

うまく磨き続けていければ

評価の対象になる。


アーティストたちのような芸術系も

あれは磨き抜かれた才能を開花させた人。

しかし、解釈する側の力量にも左右される。


アーティストたちはやっぱり、

意識的に既存の同じパターンでは

つくりたくない人たちでしょう?


如何にして新しい引き出しを

自分たちで開けられるか、つくれるか。

何かと一緒ではつまらない。

何かと一緒では残れないからこそ、

常識を外しにかかってくる。


そのアーティストたちも

従来の専門家たちに

見出だされなければ世に出られない、

という構図だけでなくなった。


昨今は動画等を自ら作成して

大衆の評価を得ていくパターンが、

確立しつつありますよね。


プロの手にかかることによって

磨かれるものもあるし、逆に

プロの手が入らなかったおかげで、

より良いものに昇華するものもある。


案外、お化け遺伝子とは

従来の常識でばかり測ろうとしたり、

自分の論理にすり替えがちになるような、

私たち自身のなかに刷り込まれた

偏見の亡霊たちを指すのかもしれない。

ん~(笑)、ちょっと強引かな(笑)








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