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他人のSHOW~他人症な私たち。


日本人は過去に縛られる。

書いていてそう感じたし

やはりいろいろと

つながっていた。


振り返るのは好きなんだけど

なんかこう、SHOWを見るような

一歩引いた目線を好む。


自分の事はさておき。

他人の事は知りたがり

解説したがりになる。


自分で体感して気づく

そのヨロコビを忘れる。

過程を捨てたんだろう。


やる文化から、見る文化に

なってしまったんだろう。


座ってみてるだけが

増えすぎてしまった。


テクノロジーの進歩や進化は

みてる人を増やした。


やる、は自分が動くことに

直結してることだった。

カラダもココロも連動して。


手作業や自力ですること

体力、忍耐力勝負。

時間は待ってくれた。


機械が人の機会を奪った

人もだんだんと汗水垂らすのが

スマートじゃないと嫌ってきた。


みる、になったら

私たちどうなった?


みるって自分が

動かないことが多い。


自分でカラダも

動かさなくなった。


いまの高齢者世代の

若い当時よりも、私たちは

動きの絶対量が足りない。


ジムで金払って動くのも

よく考えたら矛盾してる。


利便性がいろいろと

ひっくり返してしまった。


遊び場、働き場がなくなる。

カネを払わないと遊べない。


働くのも、稼ぐことだけでなく

自分を活かす場をも失った。


狭い国土で密になり蜜を吸う

窮屈をさらに窮屈にし合う。


なんか全部、よく考えたら

おかしな方向に複雑にして

こなすことで満足している。


渦中にいるとなかなか気づかない。

背中に付いた、いとくずのよう。


自分じゃ脱ぐまで気づかない。

脱いでも気にしてみないと

気づかない。

他人も取ってくれなくなった。


みることもそうだけど

自分じゃなくて

他人の動きをみがちで。


自分はもう諦めてるから

他人を応援したり

評価したりして代償行為。


自分が、自分で、できない。

自分でなくなり、自分が無くなる。

その流れに巻き込まれていく。


他人をみてる時間をみんな

増やしすぎているでしょ?


動画をみる、ネット記事をみる。

他人のSHOW(でしょう?)


自分が動かず、動く他人をみる。

自分ではうまく動けない。


動ける他人が羨ましい。

動きたいけど現状、手詰まり。

ネタミソネミが絡まり合い

いろいろある。


テクノロジーをうまく使って

動かそうとしてしまう。

けど、なんか待たされる。


そんなうまくやろうと

しなくてもいいのに。


せっかく開発したからと

それ経由で、させようとする。


人口のピークを過ぎて

減少傾向に入ったが

テクノロジーの進歩と

相反するように人は

動きづらくなった。


その進歩を活かして

操ろうとするヤカラがいて

無意識に従おうとする人が

多いから、集まりやすい。


結局、主導権を渡したまま

私たちは待たされてしまう。


他人のSHOWで満足する

他人症なのかもしれない。


他人症であり、多人症。

他認症でもあり、多忍症。


決して辞任も自任もせず

自認もしなくなった。


やはり、なにかおかしい。











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