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「超える超えない」を超えた親孝行。


海老蔵の顔が先代に似てきましたね。

CMで久々にまじまじと観ましたが、

目元が加齢とともに下がって似てくる感じ。


ちょっと前はそんなでもなかったけど

最近のマスクのCMで観たら、一気に。

目元に意識が行く効果もあるからかな。


親に似てくるってのは、なんだろうなぁ、

子にとってはちょっと複雑な感情で。


あの世界はまた独特だから

同じがいいのか、悪いのか。

そこは手をつけちゃいけないのか。

独自性と自己表現と伝統の絡み合い。


親と子には、その親と子にしか

わからない感情や感覚もあると思うんです。


似たくないなぁということが似てくる。

それはたぶん、性格的な問題に

起因するもので避けられそうにないと

あきらめている人が多いと思う。


でもね、違う自分をつくることこそが、

親を超える超えないの基準に合わせない、

自分なりの生き方、挑戦の仕方だと、

そっちのほうが親孝行だ、とも思うんですよ。


周囲は比較したがる、ほぼ無意識に呟く。

共通点を探して、親子だねぇと言いたがる。

罪はないが、言われた本人はなんか複雑。


ホントにイヤで、キライな人もいるでしょう。

しかし、キライじゃなくても

同じになりたくなんかない、

という「違う自分の自己実現」を目指す

感情を持っている人もいる(ワタクシも)。


親を尊敬しつつも、ああなりたくないって

感情もあると思うんですよ。

仕事を尊敬、人間を尊敬、

いろいろあるでしょう。


でもそばにいるからこそ、

感じるイヤなところ。


普段離れていて合わない人ほど、

尊敬の部分を、より自分のなかで

印象付けしやすくなって、

良いイメージで高めていきやすい。


たまに会うときはいつもより

「飾った親」ですからね(笑)


核家族化で親と同居しない

子が増えて当たり前になった。

それが2世代分続いているので

影響が本格化してくるんです。


親の変化を受け入れられないまま

介護や終末期に突入してしまう。


その急激な変化に対応できず、

自分にはできないって拒否の仕方に

つながってしまうのかもしれない。


親の側も、迷惑かけたくない一心で

世話になりたくないと言うが。


その気持ちが逆効果になっている。

まぁいいか、ちょっと脱線したが(笑)


親といっしょに住んでいたりすると

やっぱり真似したくないなぁ、

ああなりたくはないなぁ

って部分が目につくんです。


そして、それがイヤに

なってくるのを自分でも感じる。

互いに年をとればとるほど、です。


もしかしたら、ああなっちゃうのか?

ああいうところ、いまの自分になくても

いつか、ああなる原因が自分にもあるのか?

って思ってしまう。伝わるかな?(笑)


そうすると、あのイヤな部分の原因を

自分のなかで探して修正したくなる。


いまの段階で気づけたことを

反面教師にして、ああならないように

逆の行動を意識しようとか。


こういうところでいつも怒る親なら、

そこで自分は怒らずに別の視点に立つ。

あえて許してみるとかね。


意識的にそうするようにしてますね。

ワタクシなりの秘策ですが(笑)


気づいたら親と同じって。

評価しているようで評価していない。


親がどうこうでなくて自分を単体で

見てくれる存在、立ち位置に自分を置く。


それができたら一人前だと思うし、

「超える超えない」を超えた親孝行に

なるんじゃないかな。


ある意味で超えなきゃダメな

親という存在。

同じ解釈で超えるきまりはない。


別で立ててそこに分散させるほうが

相手を敬いつつ、自分の別の立て方で

並びたてて、同じところに届く。


このやり方だってあるんだよと。








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