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輪苦にならぬ社会に。


人間は飽きが早くくるように

次第になっていくんでしょうね。


知らないことを知ってしまうと

興味がちょっと薄れてしまう。

飽きてしまう可能性が早まる。


ホントは知らないほうがしあわせ。

詳しく知らないほうが楽しめる。

そんなことに、気づき始めてる。


消費のサイクルに自分を入れてしまう。

消費のカゴに入れるとダメなんだろう。


とりあえずカゴに入れといて

あとで考える。ってやるけど

結果的にあれもこれも全部

買ってしまう、取り入れすぎてしまう。


意外とこれじゃダメだと

気づいている人も多いけど

惰性で進むチカラが強すぎて

引っ張られていくんですよね。


もうこのサイクルから脱したい。

別の枠の組み立てをするんだと。


でも世の中のその強力な修正力。

補正力というか、復元力というか。


グイーンって引っ張って戻される。

「一蓮托生」感が強めに出てしまう。

あまり良くないたとえの意味での。


分岐点に居るんだろう。

このまま何もかも指示に従って

快適さのために大きな犠牲を払って

進むのを是とするか。


あるいは自分の気持ちを軸に

ダメなときはダメと決しながら

不便さを受け入れるか。


前者はどこかで崩れた時に

何もかも失う自分が待っている。

そこに悪びれる様子もない。


後者は崩れたとしても

立て直し感に慣れているので

レジリエンスが強くなる。


大衆のほとんどの人は

後者の戦略を取るほうが

理想的だ。


たくましく生き抜いていける。

それは紛れもない事実だろう。


しかし年々、枠にキッチリ納めた

スタイルを維持する流れが強まる。


そうすると大半が枠におさまるほうが

うまくいくとなって流れができる。

ハードルは上がり続けるだけで。


だからこそ切り替えが難しくなる。

境い目がわからなくなる。

あの時、ああしておけば。

こうしておけば。


人間が自身で制御できないと

継続が困難な時代になっても

人間はいまの状態を下げることなく

進み続けようとする。

その力は急に止まれない列車のよう。


枠の外に「輪」がつくれないものか。

枠はいろんな人を結果的に縛りつけ

少しばかり不自由がつらくなる。

その輪は苦であるのではないか。


むしろ「輪苦」ではない

「輪」がつくれたら。

もちろん「苦」が全くない

とは言わない。


しかし「輪苦」に苦しむ人が

譲り合いながらもう少し苦が無く

暮らせる世の中になるのではないか。








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