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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  新高教文芸誌汽水域コラム④ 「ダメな自分」 を出発点に】

福島第一原発の破局事故を受けて、いろいろ自らの言動を反省しつつ考えてみたコラムです。

 日本のことわざや慣用句を眺めてみると、相反する内容が対になっているようなものがけっこうあります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と「羹に懲りて膾を吹く」とか、「対岸の火事」と「他山の石」とか、「後は野となれ山となれ」と「立つ鳥跡を濁さず」とかはそのような例ですが、前者が「性懲りもない人間のダメさかげん」を述べたものだとすれば、後者は「まともな人間がとるべき道徳・マナー」を述べたものだと言えるでしょう(「羹に……」は慎重すぎるのも考えもの、という意味なのでちょっと違いますね)。

 で、わたしのような小人(しょうじん)は、ともするとつい前者の方向へ行ってしまいがちです。わたしも、いろんな失敗をやらかしてはそのたびに反省して「もう二度とやらないぞ」と誓ったりするのですが、大して時間も経たないうちにすっかり忘れきって、また同じ失敗を繰り返してしまうのは実によくあることで、全く情けないとわれながら思います。ただ、そういうのはどうもわたし個人の性格的な問題というわけでもないようです。

 東電福島第一原発事故後の電力会社や原発推進派の政・財・官・学・マスコミの皆さんの言動は、まさに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の典型でしょう。この皆さんは、あれだけの事故を起こし、放射能汚染によって福島県に壊滅的な打撃を与え、国際的な問題にもなっているにもかかわらず、ぬけぬけと「ベトナムに原発を輸出する」とか「原発がなければ日本の経済は立ちゆかない」とか「低線量の放射能は体によい」とかの発言をしていますが、そこには、懲りない人間の能天気さがストレートに表れていて、いっそすがすがしい感じすらします。またそれが、日本の政治や経済を支える「大物」な方々の発言だったりもするわけで、そのことも、ダメなのはわたしだけではないんだ、という「安心感」を与えてくれます。

 ことわざでは、「出る杭は打たれる」・「長いものには巻かれろ」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」も意味上の対になっているようです。日本社会は、「虎穴」に入り込んで冒険をして「出る杭」となって疎まれるより、「長いものに巻かれ」たがるメンタリティのほうが強いらしく、特に原子力関係者の世界はそんな感じであることが、今回の事故以後の経過でいやというほど明らかになりました。科学的な正確さより仲間うちの雰囲気を壊さないことのほうを大切と考えるその感覚は、仲間や親分が言うのならば黒いものでも白なのだ、というあり方であり、任侠の世界にも通じる「絆」を感じます。そういえば今日本では「絆」という言葉が大流行ですが、それはそういう意味でもあったのか、と改めて納得しました。

 3・11後の社会をどのように変えていくべきなのか、ということを考えると、わたしたち一人ひとりが、そういう「ダメな自分」を見つめ直すことが大切なのだろう、と思います。少なくとも、3・11の被害を直接には経験しなかったわたしたちは、そういう反省からすべてを始めていかないと、3・11の記憶が薄れていくにつれて、結局また「喉元過ぎれば……」ということになってしまうのではないでしょうか。

 この号で何人かの方々が言及している、自民党の石破茂衆議院議員の「原発保持は潜在的核保有」発言はもちろん容認できませんが、まじめな石破さんらしいものだとは思います。しかし、それは「今の社会状況」しか見ていない考え方でもあります。原発が抱え込む膨大な放射性物質を無害化する技術はありません。とすれば、「今の必要性」だけで物事を考え、面倒なことは「後は野となれ山となれ」と先送りし、まだ生まれてもいない子孫に丸投げするのではなく、3・11の災厄の記憶をきちんと教訓化して語り伝え、そのうえで理想的な未来のありようを認識的に想像し、社会をなるべくそれに近づける努力を積み重ねていくことが、3・11後の日本を生きるわたしたちに課せられている責任なのではないか、と思うのです。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」4号 2012年3月発行 より】

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