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#4 【志望動機】と【就活の軸】について考える(前編)

こんにちは。OBたきです。
「おーびーたき」と呼んでくれたら嬉しいです。

梅雨らしい日が続きますね。2週連続でゴルフの予定がなくなってしまい残念ですが、晴耕雨読をガン無視して、雨が上がった後にゴルフ練習場に行ってきました。笑

さて、今回は「志望動機」「就活の軸」です。
よく「たきさんの志望動機ってなんだったんですか?」と聞かれることがあるので書いてみました。と同時に、「就活の軸」についても触れることになるので、その考え方についてもまとめてます。ただ、思うままに書いていたら5000字を超えてしまったので、今回も前編・後編に分けたいと思います。こうも毎回だとコナンのアニメみたいですね。笑

志望動機=「2つの就活の軸と一致しているからです」

珍しく最初から結論を書きましたが、志望動機を説明するときに私が使っていたのはこれです。(このnoteは「絶対内定できる就活ノウハウ」を書いてるわけではないので、参考程度にしてください。笑)

就活の軸ってよく聞くワードですよね。簡単な言葉で言うなら、「企業を選ぶうえで大切にしている考え方」と解釈していいと思います。私はこれを1つではなく2つ用意していました。その二つとは以下の通りです。

①対学生にビジネスを展開している会社
②常に飢餓感を持って働ける会社

え、軸って2本あったら変じゃない?と思った方もいると思うので、複数用意していた理由は後編に記述します。
前編ではその2つの軸になった経緯について、超細かく書きます。笑

就活の軸を定めるに至ったきっかけ

自己紹介noteにもサックリと記載していましたが、就活を始める前からテレビ局に行きたいと思っていました。

理由は「憧れ」です。昔からテレビが好きで、特にめちゃイケとかトリビアとかのバラエティが大好きでした。あと中学の時にめざましテレビに初登場した皆藤愛子さんには完全に一目惚れしてしまい、アナウンサーになりたいと思ったこともあります。不純ですね。笑
ミーハー心を持っていた一方、テレビの影響力の強さにも惹かれていました。小学生の時にたまたま視聴者参加型のテレビに出演したことがあったのですが、全く誰にも告知していなかったにも関わらず、次の日学校で「昨日テレビ出てたよね!?」とクラスメイトから質問攻めにあったり、昔住んでいた関西の友人親からうちの親に電話がかかって来たり。幼心ながら「テレビすげー!」ってなりました。

中学生になったころ、高校受験について考えるタイミングで、ぼんやりと将来についても考え始めました。正確な時期は忘れましたが、過去のテレビ出演の経験や大好きな番組や愛ちゃん(笑)、あとはそのころから何となく、テレビ局で働くと給料が良いというイメージもあって、「よし、将来の夢はテレビ局で働くことにしよう」と決めた瞬間がありました。ここから私のすべての選択は「テレビ局に入るため」という軸に従ったものとなります。

まず高校受験。マスコミに入りやすい大学は早稲田、というイメージから早稲田大学の付属高校を目指して早稲田アカデミーに通い、頑張った甲斐あって無事に合格。高校→大学への進学時は、「学歴は高いに越したことはないだろう」という考えの基、特に勉強したいテーマがあったわけでもないものの、看板学部である政治経済学部に進学。大学では「放送研究会」「映像ジャーナリズムゼミ」に所属して、おまけにNHKでアルバイトまでして、とどめに関西準キー局のインターンにも2社参加して、もうこれ以上ないというぐらいのステータスで就活に臨みました。

結果、見事に惨敗。
ほとんどの企業は序盤の面接でお祈り。唯一、最終まで行った第一志望のNHKでも、役員の方からの「なんで報道がやりたいの?」という質問に頭が真っ白になって、数秒間黙ってしまいました。結果が来る前に落ちたことを確信した僕は、なぜか家に帰りたくなくて、帰路と反対側の山手線に乗り、約1周の間に静かに号泣してから家に帰りました。笑

ただ、これで終わったわけではありません。NHKの先輩の話で「就職留年をして再チャレンジして合格した人がいる」という噂を聞きつけ、諦めきれなかった僕は親に頼み込み、就活に再チャレンジすることにしました。後述する理由で、就職留年を決めたのが4年生の10月初旬。2014年卒の就活スケジュールは12月広報解禁→4月面接解禁だったので、1年の留年といっても準備期間は約2か月しかなく、できることは限られていました。僕がやったのは徹底的なOB訪問です。
「使える力は全部借りる」をモットーに、NHKの先輩職員にひたすら質問やESの添削をお願いし、噂で聞いていた「留年して就職した方」にもFacebookでアプローチして時間を取ってもらいました。追い込まれた人間は強いですね。笑
そうしていろんな人の力を借りて練り上げたESをポストに投函し、しばらくして受け取ったのは「不合格」の通知でした。そうです、留年してまで受けた第一志望の企業に、私は書類で落ちたんです。
今考えたら当然のことなんですが、私は最終面接での不合格で、NHKの役員から×をもらっている学生です。仮に翌年進化して受検してきても、役員がNGと言っていた学生を、人事が役員に再度推薦してくれることなどありえないと思います。(大手企業であれば、前年度に受検してきた学生のデータは保有しているケースが多いです)

NHKから落選通知を受け取ったとき、私の頭に浮かんだ感情は何だと思いますか?悲しみ?悔しさ?怒り?違います。

「研究のために録画してた番組を、もう見なくて済むんだ。」でした。

自分でもビックリしました。テレビ局受けるうえではたくさん番組を見て、研究しておく必要があると思ってたので、気になるものは片っ端から録画して、HDD容量がいっぱいになったらブルーレイに焼いてファイリングして、としてきたのですが、思い返せばそれらはたまる一方で、「いつか見なきゃ」と思っては後回しの繰り返し。結果として大量に録画だけされている番組たちを、落選の瞬間にもう見る必要がなくなったわけですが、その状況にどこかホッとした自分がいることに気が付きました。その時初めて考えました。「あれ、なんで自分ってテレビ局志望してたんだっけ?」と。

就活の軸① 対学生にビジネスを展開している会社

それからというもの、ファミレスでひたすらノートに自分の考えを書き連ねる日が続きました。いつからテレビ局に行きたいと言い始めたのか。それはなんでなのか。その決定によってどういう人生を送ってきたのか。そして落選した今、何を考えているのか・・。
そうしてたどり着いた結論が、「テレビ局への志望動機は【所属する憧れ】以上の何物でもなかった」ということでした。テレビ局に入ることが目的になっていて、やりたいこと・成し遂げたい事なんかは後付け。そんな夢だけを思い描いて、中身のない志望動機を並べていては、ただでさえ狭き門ですから、「本気でやりたいことがあってテレビ局を目指す人たち」に勝てるはずがありませんでした。NHKの最終も、いろんなマグレが重なっただけで、仮に入れていたとしてもやりたいことがなくて鳴かず飛ばずのディレクターだったんだろうと想像します。

こうして振り返りをノートに書き連ねていたときに、ふと「本気でやりたい事」が頭の中に浮かんだんです。
私と同じような経験をしてしまう学生を減らしたい。これなら、世界でも結構上位に入るぐらい本気でそう思っている気がする。
これは確信に近いひらめきでした。まるでオードリー若林さんが、2008年にM1で大ブレイクすることになる「ズレ漫才」をファミレスで思いついた時のよろしく、ノートに書く手が震えていたような気がします(誰にも伝わらない例えだという自覚はあります。笑)

では、未来ある学生に私と同じ経験をさせないためにはどうしたらいいのか。
私の場合を振り返ると、起点は「テレビ局に行く」と決めた中学生時代です。あの時、ただただ憧れを基にそう決めてしまったがために、いろんな選択を全てテレビ関連に寄せて考えてきました。高校も大学も、いろんな選択肢があったはずなのに、世間知らずの中学生が決めた憧れだけを頼りに、ほかの情報はすべてシャットアウトしてしまっていた。中学時代の「憧れ意思決定」の次に自分のキャリアについて考えたのは、就活スタートのタイミングでした。
私に決定的に不足していたのは「就活より前の時期に、自分のキャリアについて真剣に考える経験」だったんだと思います。たらればを言っても仕方ないのですが、もしも高校や大学1年次などに考える機会があれば、「テレビ局は憧れに過ぎない」と早めに気づき、より実りある大学生活を送っていたのかもしれません。そう気づいたとき、私のやりたい仕事は「学生が主体的にキャリアを考えるきっかけを創出したい」に定まったのです。それが出来そうな会社に入れば、自分の信念の通り働けていいな。そんなリソースがある会社がいいな。そのためには、学生に関わるビジネスをやっている企業なら実現可能性が高まるんじゃないか。結果として就活の軸①は自然と「学生に向けて何かビジネスをやっている会社」となっていきました。

就活の軸② 常に飢餓感を持って働ける会社

ビックリするぐらい軸①と違う軸ですよね。こちらの話は大学4年生にさかのぼります。

NHKの落選後、就職留年を決めたのは10月とお伝えしました。NHK落選は4月だったのでそこから半年近くあるのですが、落選後すぐに正規の2013年卒での就活を諦めたわけではなく、実は新卒紹介サービスなどを利用しながら細々と活動を続けていたんです。8月にようやく内定が出て、NHKとは全く別の中堅企業だったので、正直悔いはあったものの、私は就活を終えることにしました。そして9月に友人と思い出作りに、意気揚々と3週間の東南アジア旅行に出かけたのです。
初めての東南アジア、初めてのバックパック旅ということもあって、パッケージ旅行では触れることのない「リアル」を旅先でたくさん味わいました。中でも生涯忘れることのない出来事があったのがラオスでした。

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ラオスはおろか、ルアンパバーンという街をご存知の方は相当マニアックな海外通、もしくは世界遺産マニアではないでしょうか。街全体が世界遺産というルアンパバーンを訪れたとき、日本人は僕ら以外いなかったと思います。そんな日本と決して縁が深いとは言い難いルアンパバーンのナイトマーケットを友人と歩いていたとき、急に背後から流暢な日本語で話しかけられたのです。振り返るとそこにいたのは9~10歳ぐらいの少年3人組でした。

彼らはとにかく日本語が上手でした。英語がろくに話せない僕らにとってはありがたかいのですが、なんでこんなに話せるんだろう。疑問に思い聞いてみると、少年の1人がボロボロになったノートを見せてくれました。
「毎日このマーケットに来て、通りがかった日本人がいたら声をかけてお話してるんだ。話しててわからない単語が出てきたら、そのひらがなを書いてもらって、英語で意味を教えてもらって覚えたんだ」と彼は言います。聞くと、そもそも英語はほとんどマスターしていて、同じような方法でドイツ語もほぼマスターしているらしい。すさまじい能力だなと感心して、さらに「なんでそんなに言語をマスターしてるの?」と聞いたところ、彼の答えはシンプルでした。

「生きるためだよ」

聞くと、彼らは街から離れた山の少数民族で、お金を稼ぐためにはルアンパバーンの観光産業しかない。そこに従事しようと思うと、外国語が話せないと何もできない、だから習得しているんだと教えてくれました。
さらに彼は、真っ直ぐな目をして「いつか日本に行ってみたい」とも言いました。勉強して、国がやっている日本語コンクールで賞を取って、日本に行くんだ。だって自分の家の稼ぎだと、海外旅行なんて夢のまた夢だから、と。

それを聞いて、私は愕然としました。自分の人生が情けなさ過ぎて。
何の不自由もなく大学まで進学させてもらい、限りなく選択肢が豊富な環境にいながら、本気で何も取り組まないまま、紹介された企業に何とか理屈をつけて納得して、それで就職しようとしている。そして、そこそこ安いと思っていた金額で旅行をして、フラッとこの街を訪れた。ひとまわり下の少年の生きるための志を目の当たりにして、このままでは将来彼が日本に来た時に合わせる顔がない。この瞬間、私は留年してもう一回就活に、自分に向き合おうと決めました。

9月のこのタイミングでは「就職留年してNHKにリベンジする」と決めたに過ぎないのですが、ES不合格となった後、自分に向き合うために通ったファミレスで思い出すのはいつも彼らの顔でした。自分は彼らに出会って、何を学んだんだろう。どういう働き方をしたいんだろう。そうだ、彼らのように文字通り「一生懸命」になれれば、自分も胸を張っていきれるんじゃないか。彼らにあって僕にないものって何だろうと考えたとき、それが「飢餓感」だと気づきました。
私があらゆる機会損失をしてきたのは、キャリアについて考えるきっかけがなかったのと同時に、恵まれた環境=ぬるま湯につかって満足してしまっていたことが原因だったんじゃないか。社会に出てからの「飢餓」の基準こそわかりませんでしたが、就職する会社では決して現状に甘んじることなく、常に健全な飢餓感を持って働きたい。そうすれば、自分自身を常に高める必然性が増すから、彼らのように魅力的な人間に成長していけるのではないかと。こうしてラオス人の少年たちによって、私の就活の軸②「常に飢餓感を持って働ける会社」は完成したのです。


はい、というわけで前編はここまでです。長かったですね。こんな超個人的な話、最後まで読んでくれた人がいたらうれしいです。笑

後編は「就活の軸は複数あっていいのか」「志望動機にどう落とし込んでいくのか」らへんについて書きたいと思います。ではでは。

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