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#8 地域おこし協力隊になりました|父との確執

今週は力を抜いていこう。
久しぶりに更新です。先週、齢45にもなって親父に何十発も叩かれた。自宅には家族全員がいたものだから娘たちは阿鼻叫喚。いやぁ、しかし14年ぶりに引っ叩かれたが今回は酷かったな。14年前というのはリーマンショックが起きた翌年のことだからよく覚えている。当時、まだ自営業を営んでいた父が倒産の憂き目に遭い、新婚かつ出産したばかりのわたしに今はなき実家を、我々若い夫婦が買い取ってローンを払ってくれという。わたしは首を横に振った。バチーン!

嫁に行った身分のわたし。苦労という苦労をしたこともない主人にどうして借金を負わせるのか。こんな親、恥ずかしい。それがわたしの抱いた印象だった。今振り返ると、2008年のこの時、父がまだ若かった時分に工場を閉じていればよかった。

呑気に子育てに勤しんでいたわたしは、主人の協力の元、急遽働きに出ることに。1歳児の娘はわたしの母が面倒を見た。わたしを働かせるために、彼らはわたしと主人が住むマンションの目の前に引っ越しまでしてきた。派遣社員として時給2,700円で働く毎日。それでもわたしが働けば両親に30万円近くの生活費を手渡せた。今気づけば、諸悪の根源はココだと分かる。

数ヶ月後。わたしは二人目を身籠った。そのことを母に告げると、人の親の口からこんなにはしたない言葉って出てくるの? とこちらが困惑するほどの卑猥な馬事雑言を浴びせると、その日の夜にはアパートがもぬけの殻となっていた。それから約1年。両親とは出産まで絶縁状態になった。

その後、わたしは離婚をした。離婚の原因は、一人娘と子離れできない両親と親離れできなかったわたし自身の問題だと思っているし、今のこの瞬間も、血の繋がりに振り回されっぱなしである。但し、わたしはわたしの代でこの忌まわしい輪廻を断ち切ってやる。そう心を決めて、文句一つ言わずに年金受給もない両親を引き連れて生活している。娘二人には自分の思い通りの人生を自由に闊歩して欲しい。子ども時代に苦労した分、自立した後は、後ろを振り返らずに、まっすぐ歩んで欲しい。

両親はわたしが仕事の関係で移住するといえば、どこにでも付いてくるし、それこそ娘二人を思う存分甘やかし、わがままに育ててくれてもいる。わたしが思い切り仕事に打ち込めることも、時として恋愛することもできるのは、まあ、両親が風邪ひとつひかずに健康だからとも言える。二人の娘たちは未だ、マクドナルドのハンバーガーやコンビニのおにぎりを食べたことすらない。家事を切り盛りする父に感謝するとともに、敬愛の意を込めて、今回のことを日記に刻んでおこうと思う。

ことの始まりはわたしが「持続可能な村づくり」をやると決めたことから。昨年の2021年、業務委託契約は6本、過去最高益だった。がしかし、週の半分も家族と過ごせず金曜日になるとやれ小豆島へ四国へ三重に九州へとほぼ移動に時間を費やし、松本に戻るのは週明け月曜日。その実、プロジェクトは頓挫することばかり。これはコロナ禍の大きな影響の一つでもある。(詳細はまた別途。)

何枚も何枚も事業計画書を、企画書を書き殴った。担当者が口を揃えて言う。「SDGs的ななんちゃらを適当に入れといて〜」と。一昨年はコロナ禍による仕事への影響に判断を下せるところまではいかなかったが、昨年、夏くらいから考えに考えた。家族にとってでも、会社にとってでも、ではなく「わたしにとっての豊かさとは」を。ソウルメイトである行きつけのBarのマスターに手渡された一冊の本「アナスタシア」。全8巻の長編で、時間があるときゆっくりゆっくりと読み進めていたのだが、ある日突然わたしが出そうとしている答えと寸分違わない一文が出てきたが最後、わたしは腹を決めた。信大のリサーチフェローだった際に書いた論文には貨幣制度も医療制度も教育制度も婚姻制度も破綻するであろうだなんて大胆な予測をしたのだが、わたしは生きているうちにやはり上記のことを経験する気がしている。それでも持続可能な生き方とは? この答えを出してみたい。それには実践あるのみ。そうしてわたしは村にやってきたのだが、残念ながら昨年の年収よりは下がるであろう。わたしは家族がそれ相応に暮らせれば幸せじゃん、そんな風に思っていた。

税理士と8期目となる今期の報酬を見定め、家族に、父にその旨を伝えた。

父がぶるぶると震えだすではないか。広いマンションに住み、昼から美味しい手料理を母と二人でのんびりと食べビールを飲み食後は昼寝付き。娘たちの塾への送迎や、朝食の支度などがあったとしても、75歳で病気ひとつせず、毎日、何の心配もなく、仕事に出る必要もなく暮らしている。大好きだと豪語するゴルフにだって月に1度は行っている。何の文句があると言うのだ。ただ一つ、後悔しているのは、このとき、酒が入っていたことだ。

減収になるといっても微々たるものだ。家賃に光熱費、各種保険、税金、子どもたちの学費や塾の月謝を差し引いて、一日の食費が6,000円になると伝えると、顔を真っ赤にしてわたしを罵倒し始めた。我が社の接待費やら、果てにわたしのボーイフレンドについてまでもを罵り始めた。日頃、父は腰が低く、温厚で、滅多なことでは声すら荒げない。料理が得意で綺麗好き、植物を育てれれば愛をもって世話をしていつも家の中は緑に溢れてる。この奇跡の父から出てくる「本心」を聞くのは耐え難かった。

誰もが声を揃えて言った。
「優秀なお父さま、健康でまだまだ若いのだから、息抜きに仕事でもしたらいいのに。」

父が一番嫌がったのがこの言葉だ。
50年近く「社長」と呼ばれたプライドからだろうか、絶対に人の下で働こうとはしなかった。細腕繁盛記のシングルマザーのわたしが二人の子どもを育てるだけでもヒイヒイ言ってるというのにだ。働いて欲しいと言っているのではない。この5人の家族の形は変えることすら許されず、みながみな、我慢に我慢を重ね、ひっそりと死ぬまで暮らす。そのためには娘であるわたしが病気一つせずに家族のために働き、家に金を収め、とにかく二人の子どもたちが巣立つのを待たねばならない。そんな呪詛にも近い、いやこれはもう呪いである呪縛で家族をぎちぎちに縛り続けることに身内ながら腹が立つのである。

わたしが二人の子どもと三人で以前のように暮らし、両親はスープの冷めない距離に住めばいい。そのような生活スタイルにしたって、いくらだってやっていけるように、わたしだって会社を作ったし、仕事もしてきたのだ。そしてそう言われることが、最も怖いのであろう。それは娘を信用してないからだ。「娘たちを人質に取らなきゃ何をするかわからない娘=わたし」だからだ。わたしごときに捨てられるのが怖くて、罵倒して、手をあげて...

殴られている自分より、殴っているこの父が憐れで仕方なかった。わたしを殴ることで気が済むのであればいくらでもどうぞ、わたしはそう本心から思った。

彼氏が爆笑してくれたのがこれ幸いだ。

そんなわたしはいつになっても再婚すらできないのだろうか。再婚なんて望んでいない。しかし、愛する人と子どもたちと新たな生活ってのを、夢に見てしまうときもある。

答えが出ないこの問題に、協力隊の仲間が静かに耳を傾けてくれた。不思議と本心をポロポロ愚痴ってしまい、それでも受け入れてくれたことが、とても嬉しく、折れまくっていた心が少しだけ生き返った。

切りたくても切れない血縁。切ってはいけないだなんて、ただの思い込みなのかしらね。わたしが死ぬ気で守るのは二人の娘。ああ、父も母も、一人娘のわたしを、そう思っているんですよね、きっとさ。今日は村で進んでいるプロジェクトの話しが一切なくて失礼。

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