見出し画像

明るい家族計画

 父の経営する会社が倒産したのが、三年前。年が明けると四年目に入るだろうか。わたしも四十三歳になった。二人の子どもは、長女は中学校一年生になり、次女は小学校四年生。シングルマザーのわたしは、二人の女児の他に父と母を擁する五人家族の家長である。主な仕事は企業のブランディングと地域活性化のためのコンサルタント。自身が代表を務める株式会社の代表取締役でありながら、いくつかの企業と業務委託契約を結び社員然として数社に出社しながら、ブランディングやコンサルティング、プロデュースなどを行っている。出産をするまでは東京にある広告代理店に勤めていたが、その後独立。起業したのは五年前の2014年。年金受給もない両親を養い、女手一つで子どもたちを育てる経営者と言えば聞こえはいいが、人知れず抱えている問題もある。時折ではあるが、真夜中、不意に目が覚めてしまった晩などは、恐怖に襲われて眠れなくなることがある。家族を一人で養っていく重圧や、終わりの見えない裁判など。これら山積した問題に押し潰され息ができなくなる。何もかもを捨てて、逃げ出したい! そんなこと、許されぬと知っていながらも、誰も知らない町で一人気ままに暮らす妄想などして、気を紛らわす。うつらうつらと浅い眠りに就き、気がつくと夜が明けているといった次第。

 この夏、わたしは重い足取りで父の工場のあった足立区の河川敷まで足を運んだ。五十一年続いた町工場は三年前に倒産。わたしたち家族は財産もろともすべてを失い、この工場は競売にかけられすでに売却されている。来年には更地になるという。もう一度だけ、見ておきたい。台風一過の九月のこと。わたしは電車を乗り継ぎ、日暮里舎人ライナーのとある駅で降車した。歩くこと十数分。工場に近付くにつれて幼い頃の記憶がよみがえり、胸がくすぐったくなる。見慣れた神社や保育園が現れるも、あの頃は随分と大きく見えたその全ての縮尺が小さく、ちっぽけに映る。蒸し暑い日の夕方だった。全身が汗まみれ。やがて辿り着いた工場の敷地は一切の人影がなく死んでいた。わたしは敷地内にそっと足を踏み入れた。

 工場はその機能のすべてを失い死に続けていたが、うらぶれた外観を久しぶりに見て、ほっとした。時がぴたりと止まった星野工業所もなかなかなものだ。いたずらにドアノブを回し、シャッターを押し上げてみたが鍵がしっかりとかかっている。あたりまえだ。もうこの工場は人手に渡っているのだ。それでもわたしは名残惜しく、今度は劇薬を保管する倉庫のドアノブを回してみた。すると、ここには鍵がかかっていなかった。倉庫と工場内は繋がっている。わたしはそっと辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、おそるおそる庫内に滑り込んだ。シンナーとカビ臭さが同居した懐かしい匂い。

画像1

 1階は工場と倉庫、2階は祖母と父の弟家族の住居。そして飯場として使われていた大きなバラック。バブルの崩壊と共に、バラックは子どもたちの秘密基地に、父のゴルフの練習場にと早替りした。父は長男だったが母の意向でわたしたち家族は郊外に暮らした。わたしが工場で過ごした時間の多くは幼少期の夏休み。毎朝、父の2トン車の助手席に意気揚々と乗り込むと、出発だ。わたしにとっては大冒険の毎日! かつての星野工業所は従業員十数名、飯場も構えた活気溢れる場所だった。祖父が始めたポリ板屋だったが当の本人は喘息持ちで、工場で働くことなく日がな一日、大きな薬缶に入った二級酒を湯呑みで飲み、マンドリンを奏でていた。着流しにパナマ帽、腕にはロレックス。長男である父を運転手にクラウンに乗り、病院の診察を終えると浅草あたりにぷらっと消えていく完全な趣味人。

画像2

 それでもうちの飯場には、まだ幼い子どもを一人で育てるホステスや、障害を持った従業員が共同で暮らしまるでごった煮の様な様相。祖父が連れて帰った人々だ。みんな等しく貧しかった。幼かったわたしも彼らに純粋すぎる愛情でもって遊び相手になってもらった。九州出身で吃音のあるシモちゃんは緊張するとすぐに腹を壊し、公園の公衆便所に駆け込んではちり紙の難に会い、ちぎったタオルを便所によく詰まらせては、またやってしまったです、と頭をぽりぽりと掻いた。飯場で飯炊きをしていたみんながどっと笑う。金もなくみんな、半ばアル中のような状態だったが、酒でも飲まなきゃやってらんない、そんな時代だった。それでも笑い声で溢るるこの工場は、だれをも受け入れ優しかった。遊び疲れたわたしは工場からの帰り道、2トン車で揺られるとシモちゃんの胸に凭れてよく眠ってしまった。この薄汚れた汗の匂いのする肌着の安心感。この世には世の底辺からすらこぼれ落ちそうな人々がいる。わたしは無意識のうちにそれを知った。

 これからぽつぽつとではあるが、奇妙奇天烈な祖父の話などを書いて残そうと思う。祖父だけじゃない。シモちゃんや、その他大勢のユニークちゃんの話を。

 土手沿いに沈む夕陽を見ていたら、そんな幼い頃の夏休みを思い出していた。二〇一九年九月九日、旅の友人が同伴してくれ、念願の最期の訪問が叶った。荒川土手のそばのまさに、廃工場。こっそりと忍び込むドキドキはまるで夏休みの最終日のような感慨だった。

 星野家一家離散。まあ、それはそれで、いいじゃないか。人に優しく。これが星野家の家訓だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?