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地域おこし協力隊になりました

2月1日に村に入り早一週間。『サーキュラーコミュニティーを創る!』意気揚々と地域おこし協力隊(パートタイム会計年度任用職員)になった訳だが、このプロジェクトには予算も交付金も協賛金も2022年2月9日現在では、まだない。ゼロ。

でもわたしは知っている。『ゼロ』だけがエネルギーを呼び込むことができるのだ。約束された成功や報酬なんて要らない(強がり!)

わたしは常に新しい刺激に身を晒し、感覚を研ぎ澄まし生きていく人生を選択した。わたしに必要なのは、古い衣服をかなぐり捨て、寒風に身を晒す快感への勇気!(芸術家かょ)

2021年10月13日、村の議員さんに橋渡しをしてもらい、村長に「わたしに1㌶の土地を用意してください。」と希求した。これがすべての始まりだった。なぜ、1ヘクタールか。これはおいおい書いていこうと思う。村役場に出勤している間は、短くても毎日情報発信をしようと思う。備忘録でもあるし、協力隊活動日誌でもあるし、今のところ動ける資金もなく暇なのである。

村役場で働くのはこれが初めてではない。2012年のことだから今からちょうど10年前。長女が5歳、次女が3歳。まだ幼かった二人の娘の手を引きわたしは沖縄本島からフェリーで30分の離島に移住した。この時の気持ちを綴った日記を読み返してお茶を吹き出した。

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「わたしは高揚していた。何があろうと、どうとでもなるだろう。どこからくるのかこの確信だけを胸に、わたしはこれから始まる新しい生活に期待を膨らませていた。この胸の高鳴り。そして解放感。家族水入らずで過ごすこれからの日々を想うと背筋がぞくぞくとした。いよいよ始まったのだ。いよいよほんとうのわたしの人生がスタートしたのだ。」

10年前とまったく変わらなぬではないか。沖縄は1年だった。たった1年で東京へ逃げ帰り、それでも両親との同居が嫌で半年も経たぬうちに新天地を求めて名古屋は大須へ再び飛び出した。2年の大須での生活を終えると結局は実家へと戻って行った。星野家の顛末はコチラから

信州へやってきてから今年で4年目。
今回の移住は逃げるのではなく、夢を追うため。後戻りはしません。

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