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「好き」が暴走して批評を殺すなら

 批評って大事だなと思いましてね。
 あるジャンルの専門家の方々の丁寧な批評があるからこそ、作品の解像度が上がったり、「その視点はなかった!」という発見があったり、そのものの本質に迫るヒントを批評は提示してくれると僕は思っています。
 しかし、最近、「俺が好きなんだから作品のことを貶すなよ!」という声がよく聞こえてきます。「好き嫌い」と作品の良し悪しは全く違うと思うんですね。何故か、作品の評価と自分の感動体験がイコールで繋がっている方が時々いて、その批評さえも行えないようにする声も最近はあるジャンルでは聞こえます( だから僕は、そのジャンルは、海外の作品を観ることが多いんです )。

 自分の好きな作品は、必ずしも専門家たちやクリエイターの方々が褒めるとは限りません。また、専門家の方々が褒めていても一般人の方々はそうでもない、というものもあります。文学作品とか最近、この乖離が進んでいる気が凄くします。

 「みんなが観ているんだから、この作品は大勝利!」みたいな語り口が生み出されたのはいつからでしょう?
 誰かに僕が好きな映画を「こんな映画、誰も観ないよ」と言われたら、「いやあ、そうですよね」と言いながらも心の中では絶対に喜んでいると思います。「よしよし、そりゃそうだよ、ついてこれるわけないじゃん」と心の中で思っていると思います。
 誰かに何かを言われたとしても、自分の中の好きは揺らがないと思います。それでも好きな映画評論家や書評家の方が、自分の好きなものをボコボコに言っているとちょっと「自分の審美眼ってまだまだなのかも…」と不安に思うこともあるんですけどね。寝て起きたらまた元に戻っています。この辺りは自分の恋人に対するスタンスで置き換えて考えてみるとすんなりいくんじゃないでしょうか?周りがどう言おうと自分の大事なパートナーですし、周りの声でパートナー評価変えてしまうと、相手が好きなのか周りが好きなのか分からなくなります。

 さて、この大前提の上で本題に入っていきたいんですけどね。
 謎の忖度エンジンが発動する時って無いでしょうか?
 たとえば、SKE48の新曲が出たとしましょう。
 「うっ、なんだ、この新曲」というものが来た時、「今回は出来が良くなかった」と素直に書かずに「いやあ、1年ぶりに新曲出たんだしさ。喜ぼうよ」みたいな目線で見ていることがあるんですね。「ほら、ライブで聴いたらよくなるかもじゃん?」とか自分で自分を説得していることがあります。

 僕がブログを始めたバックボーンには、2018年の夏ぐらいにSKE48は叩いていいみたいな謎のムードが漂っていたように僕は感じてましてね。だったら、徹底的に正攻法でSKE48の魅力を発信して行ってやるよ!というような意気込みでスタートした部分があるんですよね。
 でも、近年はもう褒める文化というかファンダムが十分に広がっていった気もしてましてね。広がり過ぎてちょっとした批判は封じ込めるような空気を僕は感じています。
 僕ごときがウダウダ言ったところで、読んでいる人の「好き」は変わらないと思うんですけどね(『好き』がもっと深まるのは大歓迎です )。

 で、ここから凄い面倒くさい領域になってくるんですが、「今回のSKEの曲はここが前作と比較した時に進化したものの、ここは明らかにおざなりになってしまった」とか「STUとMVを比較した時に画面の中の風景に対する意識が違い過ぎないだろうか?」と自分が思うことはいいんですよ。それを波風絶たないように柔らかくしてnoteとかに書いたりね。
 でも、誰かがSKE48の悪口を言うと、何故かカチンとくるんですよね。

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