午前3時のギムレット
午前3時のバーカウンターでは、女が独りウイスキーのオンザロックを味わっていた。
哲也はその夜の1杯目の酒を味わうために、女から2席左のバーカウンター座った。午前3時という世界で最も静かな時間のバーカウンターには哲也と女しかいなかった。
「ギムレットを」
哲也はその夜の1杯目のオーダーをギムレットに決めていた。その夜はマティーニでもサイドカーでもなく、どうしても1杯目にギムレットを味わいたかった。2杯目は考えていない。いずれにしても1杯目だけは譲れない、そんな哲也のオーダーを女はウイスキーを味わいながら見ていた。
バーテンダーはゴードンのジンをハンドメジャーでシェイカーに注ぐと、フレッシュライムをカットした。4等分に刻まれたライムは順に絞られながら、直接シェイカーに落とされた。最後にシロップが加わると、バーテンダーはテイスティングをしない代わりにバースプーンで入念に調合した。
しなやかなシェイクはいささか長すぎるように哲也には感じられたが、夜明けまでにギムレットを味わうには、余りあるほどの時間が保たれていた。
目の前のショートグラスにギムレットが注がれると哲也はそれを一口味った。
右の女は目の前のオンザロックよりも哲也のショートグラスに視線を注いでいた。
「ギムレットが好きなのね」
女は哲也を見て言った。グラスにはウイスキーがグラスに対して3割ほど残っているが、氷はほとんど溶けていなかった。飲むペースが早いのか、氷に触れる女の指が冷たいのか、哲也は氷を通して女を観察した。
「はい、1杯目はギムレットに決めていました」
「午前3時のギムレットね」
女の言葉に揺さぶられないように哲也は再びギムレットに対峙した。アルコールはゆっくりと哲也の身体に触れ、その血に流れながら鼓動を刺激した。女の視線は変わらず哲也に注がれていた。
「ねぇ、ギムレットが好きなあたなはレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』は読んだことある」
「はい、フィリップ・マーロウと再会したテリー・レノックスが夕暮れのバーカウンターでギムレットを味わいます」
「そうね、テリーは「I suppose its a bit too early for a gimlet 」とつぶやく。清水俊二は『ギムレットにはまだ早すぎるね』と訳しているけれど、わたしはね」
女はそこで言葉を区切り、残りのウイスキーを一気に飲み干した。
ウイスキーが喉元を流れると、女はひととき無防備になった。哲也の視線は女の喉元を捉え、女は哲也の視線を感じた。グラスに残された氷は、我関せずとウイスキーに溶けていった。
「あのフレーズは、ギムレットのようなカクテルを味わうには、ある程度大人になってからだから、そうね、あなたのような若者にはギムレットは早すぎる、という意味だと思ってたわ」
哲也は女の目を見たままグラスに残されたギムレットを一口で飲み干した。
「あら、若者扱いして怒ったのかしら。大人げないのね」
「僕がギムレットを味わうには早すぎますか」
女は視線に加えてその身体を哲也に傾けた。
「そうね、じゃ次は何をオーダーするのかしら」
哲也は女から視線を外し、バーテンダーにオーダーした。
「今度はフレッシュライムではなくコーディアルライムをジンと半分ずつで他には何も入れない本当のギムレットを」
女は哲也のオーダーを聞くと、この夜の行く末を思いながらグラスに残された氷をその指で回しはじめた。
バーテンダーは、2杯目のギムレットではメジャーカップを通してジンとライムを30ミリずつ注ぎ、入念にテイスティングをして、力強くシェイクした。やがて本当のギムレットが哲也の前に注がれた。
「酸味がジンに歩みより、ジンはその存在を示しながらも調和に応じて、円やかでいながらも重たさを感じられる。総じて夕方に味わうには早すぎるギムレットです」
哲也が言うと女は氷を回していた指を止めた。氷は従順にその姿を露わにした。
「あなた、ギムレットを味わうのに相応しい男のようね」
「あなたは何をオーダーするんですか」
哲也は挑むように女に問いかけた。
「そうね、何がいいかしら」
女は氷で濡れた指をその唇で拭った。
「わたしにパリジャンを、彼にはマティーニを」
バーテンダーがショートグラスを手すると、女は僅かにその距離を詰めていた。
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