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左利きの女の記憶

幼い頃には右利きであった記憶があるが、いつから左利きになったのだろう。

左利きを右利きに矯正する人はいるが、右利きを左利きに矯正する人はいない。

その疑問は自らの体内をろ過して吹かれるタバコの煙を見る度に思い出された。

わたしは右利きの記憶に触れるためにタバコを吸い続けているのかもしれない。


多くの喫煙者と違い青山葉子は、仕事終わりにも食事の後にも眠れない夜にもタバコを吸いたいと感じることはなかった。
「吸いたい」という欲求ではなく「吸わなければ」という内側からのシグナルが葉子にとっての喫煙のトリガーとなっていた。

そのシグナルは不定期に前触れなく訪れていたが、ここ1ヵ月葉子はタバコを吸うことはなかった。

「今は吸う必要はない」口に出して言いながら自らの状態を確かめると葉子はその足でバーへと向かった。
葉子がその時に残していたタバコは1本だけだった。

青山葉子と赤坂哲也

赤坂哲也がバーカウンターの左端に座ると、その1時間後に青山葉子が右端の席に座った。以来、週に1度両端の席から同じ銘柄のウイスキーが3杯ずつオーダーされ、そのサイクルはいずれも水曜日の夜に繰り返された。

つまり哲也はウイスキーを水割りで2杯味わった後にロックで味わい、葉子はロックで2杯味わった後に水割りで哲也と同じウイスキーを味わった。両者ともに30分で1杯のペースでウイスキーを味わい、それぞれ1時間半後にバーカウンターを後にした。

10席のカウンターの哲也と葉子を挟む8席は、空席のこともあれば満席に近いこともあったが、水曜日の夜に限っては哲也と葉子が座るまで左右両端の席は空いていた。その席はどの席よりも静かに哲也と葉子を待ち受けているようで、誰に触れられることもなく、存在さえ忘れられているようだった。

恵比寿は30年に渡りそのバーカウンターで様々な人間を観察してきたが、男と女が同じ曜日の同じ時間に両端の席につき、同じウイスキーをオーダーするような偶然に出会ったのは初めてだった。

水割りとロックがオーダーされる順序が逆で、男が1時間だけ早くバーの扉を開け、女が1時間後に去る。いわば相対する規則に沿った偶然性の高い成り行きを恵比寿は冷静に観察した。

最初の水曜日/マッカラン

20時丁度に哲也が左端の席に座ると、恵比寿はその五感を研ぎ澄ました。
20代後半、タバコは吸わない、右利き、話がしたいタイプではなく、じっくりと酒に向き合うタイプだ、と恵比寿は感じとった。

30年もバーカウンターに立っていれば席に座った瞬間、その客が何を求めてバーにやってきたかは即座に分かる。それは恵比寿が身に付けた1つ目の職業的スキルだった。
哲也はマッカランの水割りを2杯続けてオーダーした後に、同じくマッカランをロックでオーダーした。

21時5分前になると恵比寿は氷の状態を確かめた。
1時間に1度氷の状態を確かめることは、恵比寿が30年間欠かさずに続けてきたルーティンだった。どんなに忙しくオーダーが続いても1時間に1度、時計が55分を表した時、恵比寿はその動作を止めて氷と対峙した。

そのような決められたサイクルの中に心身を預けることで、ある時から恵比寿は時計がなくとも、尋ねられれば即座にその時間を言い当てることが出来るようになった。
外側を注意深く観察して、自身を一定の規則に従わせることにより時間の流れを正確に掴む。それは恵比寿の2つ目の職業的スキルだった。

21時には哲也が座る左端以外の席は空いていたが、葉子は迷わずに右端の席に座った。

30代後半、左利き。恵比寿にしては珍しく葉子の初動からそれ以上のことは掴めなかった。恵比寿は左手の使い方は自然でありながら、右手を使っている時の葉子の左手の存在に違和感を感じとった。

恵比寿は葉子に対してより注意深く距離を保ち、観察の精度を高めた。

葉子は左端に座っている哲也を一目見てからマッカランのロックをオーダーした。
水曜日の21時過ぎに両者のマッカランがオンザロックで一致した。

内側に向けられていた哲也の意識は、葉子の存在により半ば強引に外側に向けられた。哲也は自らのペースを乱されないように、今まで味わってきたウイスキーの銘柄を心の中で呟きながら、その味わいを思い出すことに意識を注力させた。

恵比寿は哲也と葉子の中間の位置に立ち、その意識を左右均等に振り分けた。

葉子が左ポケットからライターを取り出すと、恵比寿は葉子の左側に灰皿を差し出したがそこにタバコは続かなかった。

タバコを伴わないライターは、グラスを元の位置に戻す目安としてただカウンターに置かれ、役割を失った灰皿は、タバコの不在と葉子の存在をより際立たせた。

葉子は何も話すことなくただウイスキーを味わい、バックバーのさらに奥を見るような鋭い視線を注いでいた。

恵比寿の五感には、氷がその輪郭を溶かしながらウイスキーに向かい自らを調和させていく気配が届けられた。

哲也と葉子はオンザロックのグラスを傾け、緊張と緩和の流れに揺られ、視線も言葉も交わすことなく雄弁に語り合っているようだった。

葉子が2杯目のマッカランをロックでオーダーした21時30分に哲也はバーカウンターを後にした。
恵比寿は左端の席のグラスだけを残し、他の席を新たなた客を迎えるべく丁寧に磨きあげた。

葉子は3杯目にマッカランの水割りを飲み終えると、22時30分にカウンターを後にした。

両端の席が空いた後、恵比寿はしばらくの間葉子と哲也の存在の余韻を感じていた。

2度目の水曜日/タラモアデュー

21時に哲也と葉子は両端の席からタラモアデューのロックをオーダーした。

恵比寿は直前に確かめた氷をグラスに馴染ませ、それぞれの席にオンザロックを提示した。

ウイスキーを味わうペースは変わらなかったが、葉子に視線を移すことが多くなっていた哲也は、目の前の氷が溶けていく様を眺めることで自らの意識を内側に保っていた。

哲也の視線を感じた葉子は、最後の1本のタバコに火を付け自らの心に語りかけた。

赤坂哲也と最後に会ったのはいつだろう。

その頃のわたしはウイスキーの味を知っていたのか。

その頃のわたしはタバコを吸っていたのか。

その頃のわたしはもう左利きだったのか。

なぜだろう。今のわたしは初めてタバコを吸いたいと感じている。

タバコに火が灯るとその煙は葉子の真上に垂直に延びていった。
その煙の形は葉子の装いのように美しく舞っては暗闇に消えていった。

恵比寿は葉子から紡がれた煙の行方を見て懐かしさを感じた。

3度目の水曜日ワイルドターキー

バーボンウイスキーを水割りでオーダーする人は稀だった。
バーボンウイスキーの水割りはスコッチウイスキーの水割りには勝ることはなく、またバーボンウイスキーのソーダ割りに勝ることもないと恵比寿は信じていた。

哲也はワイルドターキーと水割りの相性の悪さを2杯続けてじっくりと確かめた。その相性の悪さを確かめ感じることで、哲也は自らのペースを保っていた。

葉子はワイルドターキーのロックを味わいながら、初めて恵比寿に話しかけた。

「ねぇ、どうしてわたしが左利きだってことに最初から気付いたの」

恵比寿は葉子の斜め前に立ち丁重に応じた。

「興味を持つことです。
私はあなたが最初に右端のカウンターに座った水曜日の21時からあなたに興味を抱きました。
自分をなるべく隠しながら相手を観察すると色んなことが見えてきます。
ただしその興味が保たれるのはあなたがカウンターに座っている間だけです」

「ずいぶんと器用なのね」

「お客様との距離を保つことはバーテンダーのミニマムスキルです」

恵比寿はそう言うと柔らかい笑みを添えて葉子の前から1歩後ろへ退いた。

「距離を保ちながら観察すること」

それは恵比寿が誰に教わるでもなく、バーカウンターで自らに定めた原則であった。予め定めた原則の流れに沿ことで恵比寿は、カウンターの客との間に線を引き、起こり得るトラブル事前に回避し、緩やかな安定を保っていた。

葉子と恵比寿の会話に耳を傾けていた哲也のウイスキーを味わうペースは僅かに早まったが、哲也がカウンターを後にするのは同じく21時30分だった。

4度目の水曜日/タリスカー

21時、哲也が左端の席からタリスカーのロックをオーダーすると、その夜の葉子は哲也の右隣に座った。哲也を見ることなく、葉子は無言のままタリスカーのロックをオーダーした。

哲也は高まる鼓動を抑えるために、グラスに留まる氷に触れてその冷たさを感じることに意識を傾けた。

カウンターは哲也と葉子だけだった。密度の濃い沈黙が続き、恵比寿の存在が静けさの精度を高めていた。

哲也が3杯目のタリスカーをロックで飲み終えた。恵比寿は葉子がいつも座っていた右端の位置に立ち、グラスを丁寧に磨いていた。
静けさを保ちながらも恵比寿の意識は鋭くカウンターの左端に向けられていた。

「4杯目、どうするのかしら」
葉子の声はどこかで聞いたことのあるような響きを伴い哲也の耳に届いた。

哲也はその夜初めて恵比寿に4杯目のオーダーをした。

「タリスカーを水割りで」

「いつも同じウイスキーを水割りで2杯味わい、3杯目にはロックをオーダーする。4杯目はまた水割に戻るのね」
葉子はバックバーに視線を留めながら哲也に言った。

「あなたは僕と同じ銘柄のウイスキーをロックでオーダーして、先々週の水曜日にはタバコの煙を真上に吹きながらそれを味わっていました」
哲也は葉子に応じて言った。

「わたしはあなたとは逆。最後に水割りで味わうの。それよりタバコの煙の行方まで見てるのはあなたの他には1人しかいないわ」

哲也は葉子の横顔を見たが、葉子の視線は変わらずバックバーに注がれていた。

恵比寿は右端からカウンターの真中に立ち位置を変え、少しだけ2人に近づいた。

葉子は続けた。

「じゃわたしがあなたのことを前から知っていたことには気付いていたかしら」

葉子は初めて哲也を見て言った。鋭い視線が哲也に注がれた。

葉子と目が合った哲也は視線を外し、呼吸を整え、ウイスキーを一口味わった。もう1度葉子を見ると葉子は未だ哲也を見ていた。

哲也は葉子を見ながら記憶を掘り起こしたが、バーカウンター以外で葉子を見た記憶にはたどり着けなかった。

「記憶のどこを探してもこのカウンターでウイスキーを味わっているあなたしか見当たりませんでした」

「そう、観察力には優れている割に記憶力には乏しいようね。アルコールのせいかしら」

葉子はそれ以上哲也に話しかけることはなく、両者は隣り合わせたまま静かにタリスカーを味わった。

その夜葉子は2杯目にタリスカーのロックを飲み終えると、水割りをオーダーすることなくカウンターを後にした。哲也の右隣にはやはり葉子の存在の余韻が残っていた。

哲也は5杯目に再びタリスカーをロックでオーダーした。葉子に意識を乱された哲也にはアルコールで中和を図ることを必要としていた。

恵比寿は新しいグラスにタリスカーを注いだ。哲也はゆっくりと時間をかけてタリスカーを味わい、いつも葉子が3杯目を飲み終える22時30分にカウンターを後にした。

5度目の水曜日/ラフロイグ

21時5分前、恵比寿はいつも通り氷の状態を確かめた。哲也は水曜日の夜の流れに準じてラフロイグをロックでオーダーしたが、葉子は現れなかった。

淡い期待を抱いている哲也に対して、恵比寿は月曜日の夜にも金曜日の夜にも葉子がこのカウンターに姿を表すことはないだろうと心の中で語りかけた。

哲也が右端の席に目を向ける珍しく恵比寿が語りかけた。

「今日はより静かな夜ですね」

哲也は恵比寿の言葉を受けて21時30分にバーカウンターを後にした。

水曜日の夜銘柄が定まらないウイスキー

哲也はその後も水曜日の夜20時にバーカウンターの左端の席に座り、ウイスキーを味わうサイクルに自らを預けた。水割りとロックを味わう順序は変わらなかったが、ウイスキーの銘柄は定まらなかった。

左端のバーカウンターで水割りとロックを味わいながら、哲也は記憶の中にいるはずの葉子の存在を探っていた。

ある水曜日の夜、20時に哲也がバーの扉を開けるとカウンターは右端の席しか空いていなかった。

哲也は座りなれない右端の席で飲み慣れたウイスキーを水割りで2杯味わった。

その日の客はみな1人でそれぞれの酒を味わい、誰も恵比寿に話しかける者はおらず、3杯目にオンザロックをオーダーする頃にカウンターは哲也だけになっていた。

哲也は左側の中指でグラスの氷を1週半回した。氷は少しずつその姿をウイスキーに溶かしていった。

定期的に響く氷が溶ける僅かな音。その音を聞く度に哲也の記憶は葉子に近づき、氷がグラスの中で自らの存在を薄めていくに連れて、葉子の解像度が高まった。

恵比寿は哲也の斜め前に立ち柔らかい笑みを添えて言った。
「間もなく氷が完全に溶けます」

恵比寿の言葉の後には静けさの精度が高まり、氷が完全に溶けると哲也は葉子の記憶にたどり着いた。

右端のカウンターでウイスキーを味わっている葉子は左利きだったが、記憶の中の葉子は右利きだった。

右利きの葉子はいつからか左利きの葉子になったのだろう。
葉子はなぜ右利きから左利きになったのだろう。

恵比寿は新たな空のグラスを左端の席に配置して哲也に言った。

「今日はあなたをあえていつもとは反対の右端の席に誘導致しました」

哲也は恵比寿の言葉の真意を探り、左端の席に置かれた空のグラスを見て恵比寿に言った。

「今、左利きのあの人のことを思い出しました」

「左様でございましたか。そしてさらには思い出せなせいない記憶に触れたのではないでしょうか。左利きの謎を」

恵比寿は誰もいない左端の席に置かれたグラスにウイスキーを注いだ。
哲也がグラスの中のウイスキーに僅かな揺れを感じると、静けさが保たれたバーの扉がゆっくりと開かれた。

鼓動が高まった哲也は思わず振り返り、恵比寿は扉を見ることなくその笑みを闇に隠した。

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