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ドラゴンクエスト1~5のパッケージイラストについての考察。

ドラゴンクエストというタイトルはもはや説明不要の名作シリーズなのですが、僕も1の発売当時からのファンでして、愁いを帯びたストーリーとゲームバランスの良さに毎回感激していますが、まず子供時代の僕が何故数あるゲームの中からこの作品を選んだかと言えば、何しろ鳥山明先生によるパッケージイラストの魅力に撃ち抜かれたからです。

数年前に会社を辞め独立する際にも、同僚や先輩方からの選別として僕はドラクエとドラゴンボールの画集をリクエストさせて頂き、今も一生の宝物と思って大切にしています。

驚くべき事にドラクエ1~3までのシリーズに関しては、ほぼ1年毎に発売されており、当時ドラゴンボールも既に週間連載されている中、今考えると敵キャラ含め全てデザインするのにどれだけの苦労がおありだったかは想像を絶しますが、お陰様で現在40代半ばの僕は未だに鳥山先生が描く世界の虜です。


と、おじさんの暑苦しい愛の告白はこれくらいにして、少しイラストのプロっぽいお話をしたいと考え、今回はドラクエ1~5までのパッケージイラストを取り上げ、その魅力に関してなるべく理論的に考察し持論を語ってみようと思います。

ちなみにドラクエシリーズでは新作がリリースされる度にゲーム内に必ず新たな試みが加わっており、取り分け最初の5作品はシリーズとしてもゲーム業界としても歴史が浅かった分毎回の変化の度合いも顕著で、パッケージイラスト上にもそれらが端的に反映されており、ここから得られるイメージの刷り込みがプレイヤーにとってのゲーム作品自体のクオリティにまで影響を与えていると僕は考えており、鳥山先生個人の表現による魅力は勿論としても、基本的な事としてドラゴンクエストという作品は「商品」という前提がありますので、これに加えてプロジェクトとしての「意図」と「機能美」がそこに練り込まれていると考えられる部分に関して、誠に僭越かつ勝手ながら色々な観点から褒めてみました。


ドラゴンクエスト1のパッケージイラスト
※具体的に分からない人は検索すればすぐに出てくると思います。

ドラゴンクエストの第1弾として発売されたファミコンソフトですが、それまでPCゲーム等ではギリギリ散見された、「敵キャラと1人称視点の対面式で戦闘を行う」というシステムが、家庭用ゲーム機の世界に初めて大々的に持ち込まれた作品だったと認識しています。

この時代、世間的に家庭用ゲーム機はまだ「子供のもの」という認識で、ドラクエ以前も以降もあらゆるゲームのパッケージで、主人公はこちらを向いて顔が見える構図で描かれているものが殆どでした。

単純にかっこいい(かわいらしい)主人公がこちらを向いている事は、キャラクターの魅力を分かりやすく表現する上でセオリーに則っていますし、僕もキャラクターもののお仕事をしていて、特に子供向けとなれば尚更、そのキービジュアルを描くとなれば顔が見えてユーザーと目が合う見え方を選択するケースは多いです。

そんな中、ドラゴンクエストのパッケージイラストは画面手前にマントを翻し、かろうじて横顔(斜め後ろ気味)の主人公の背中とがバン!と描かれ、こちらを向いているのはむしろ敵キャラとして対峙しているドラゴンの方、という描かれ方をしています。

鳥山先生の絵柄はコミカルで劇画調とは言えませんが、この演出一つ取っても、このソフトがいわゆる子供向けのものではない事をうっすら物語っているように感じます。

またこのアングルは、三人称視点ではあるものの上記で触れたゲーム内の戦闘シーンのそれとほぼ同期しており、言ってしまえば当時のファミコンの解像度と色数という、現代から考えると信じられない程丸出しのドット絵を見ながら、「ゆうしゃのこうげき、○○に20のダメージ」とテキストで表示されるだけのレトロゆえのチープな画面演出に対して、プレイヤーが「僕は今戦っている」と明確にイメージできた大きな理由は、当時の子供たちがテクノロジーの未熟さを想像力で補完していたというだけではなく、ソフトを立ち上げる前のお店で手に取った時点から、このパッケージイラストに誰しもイカレちまっていたからと、少なくとも僕は考えています。

或いはこの主人公の背中からのアングルは、強大な敵に対して何かを守りながら戦っているようにも見え、作中囚われの身となっているローラ姫の視点なのかもしれないと考えると、シリーズ通して主人公を「勇者」と呼称する点に関しても、意図的に説得力を与える演出と言えるのではないかと。


ドラゴンクエスト2
1は基本的に1人旅だったのに対して、ドラクエ2では途中から主人公に加えて2人の仲間が登場しますし、1での戦闘は1回のエンカウントにつき敵1体だったのに対し、2では1回の戦闘に複数の敵キャラが登場するようになりました。

また1では主人公が剣も魔法も使える万能タイプだったのに対し、
【勇者】ローレシアの王子:剣が強いが魔法が使えない
【仲間1】サマルトリアの王子:剣はそこそこ、回復魔法が得意
【仲間2】ムーンブルクの王女:攻撃魔法が強力だが、肉弾戦はからっきし
と、プレイアブルキャラそれぞれにはっきりとした能力的な個性があり、協力する事の強さと難しさによるバランスが生まれていました。

そしてパッケージでは、最初から最後までプレイヤーが操作する大きな剣と盾をかざすローレシアの王子を中央に、細身の剣を持つサマルトリアの王子と杖を構えるムーンブルクの王女、左に倒すべき悪のボスキャラクターが描かれているのですが、今回は画面内のキャラクター達は善も悪も両方こちらを向いており、同じ地面の上に勇者とドラゴンが向かい合うように立体的に描かれていた1とは違い、敵キャラ達は主人公たちが見上げる上空にイメージとして浮かぶような構成になっています。

これは恐らく基本的なゲームシステムの説明的表現の必要から解放され、むしろ今回の目玉である味方キャラクター達のディディールが如何に描かれるかが重要という判断と、チーム戦になった事で敵の陣営もより強大になったというイメージが表現されていると考えられます。

また2の舞台設定としては1の100年後の世界なのですが、1の勇者が中世のヨーロッパを若干アレンジしたような角の生えた鎧兜を着込んでいるのに対し、2の主人公たちはゴーグルやレッグウォーマーのようなものを装備していたりと、世界観を保持しながらも時代の経過による文化の変遷をうっすら感じさせる見栄えになっている点も注目かと考えています。

発売時の1987年当時は、まだ「剣と魔法のファンタジー世界」を「どう描けばそう見える」というセオリーが、令和の現在よりももっとぼんやりしていたという事実を考えると、この完成度の高さを更に感じて頂けるのではないでしょうか。

そして、物語冒頭から主人公たちが倒すべき敵として明かされているボスキャラの背後に、正体不明の更なる敵キャラ(実は真のラスボス)がぼんやりと描かれており、これも少年心をくすぐられました。


ドラゴンクエスト3
この作品から導入された新要素が味方キャラクターの「職業」でした。

2の主人公格のキャラクター達はある程度世界観を背負った存在(各王国の王子と王女)だったのに対し、今回は「失踪した英雄の息子」という立場の主人公以外の仲間は全て酒場で出会う傭兵という設定で、戦士(肉弾戦)、魔法使い(攻撃魔法)、僧侶(回復魔法)と、冒険を進めるなら不可欠と思われるものから、商人(お金儲け)、遊び人(??)といったものまである中からプレイヤーが任意に選択する事で職業に見合った初期パラメータとその後の成長バランスの特性を得る事になります。

彼らの人物的バックボーンは描かれる事はなく、男女の設定も含めてその場でエディットする事が出来ました。

さらに物語を進めて一定以上育った時点で別の職業に転職も可能で、剣の得意な戦士が魔法を使えるようになったり、回復魔法も攻撃魔法も両方唱えられるようになったりと、ゲームを進行していく中での味変的要素も含めこれらをどう構成するかという「自由度」と、基本的に勇者を含め4人までしか一緒に行動できないため、プレイヤーごとの「選択」が攻略の要素として大きく加わった事になります。

そして勇者だけは転職が出来ないのですが、2で「剣〇魔法×」だった所から1同様に剣も魔法も使う事が出来、かつ3からは「職業勇者」しか使えない強力な魔法もあり、物語後半にかけての仲間の成長に関する多様性に対し主人公としての存在感を失わないだけのポテンシャルを秘めていました。

パッケージイラストは、勇者を中央に配置し各職業の男女キャラ全員が左右にずらっと並んでいるのですが、印象的だったのはこれまでの2作品と違い、戦闘シーンではなく全員がこちらを見据えて整然と立っている点で、こういった演出は後にも先にもゲームのパッケージとしてはお目にかかった事がありません。

パッケージはそのソフトの看板ですし、発売当時は「前情報を得た上でゲームを買う」という文化も希薄な中、ある意味派手な演出であるほど良いはずというセオリーに対し逆位置に向けた型破りとも言える反面、唯一無二の存在感を放っていました。

また敵キャラであるドラゴンは画面背後の左右にシンメトリーに描かれており、敵キャラというよりは勇者パーティーを彩るあしらいのようにも見え、今回は完全にほぼ味方キャラ達の存在感に全振りしたイメージ作りと言えるでしょう。

シリーズ3作目ともなると一般的にもドラクエは社会現象として既に爆発的認知度と人気を誇っており、当時は朝から並んでも整理券をもらえなかったというような話をそこかしこで聞いたものですが、このパッケージイラストからは「ご存知ですよね?」という王者の風格すら感じた事を記憶しています。


ドラゴンクエスト4
この記事のトップ画像を見て頂いてもお分かりになるかと思いますが、僕にとって最も思い入れが深いのがこの4です。

というのも、この作品にはゲーム業界的に見ても画期的な試みがいくつもあり、そのどれもが本当に全部楽しみ楽しみで、発売前から色々なゲーム雑誌を何度も読み漁っていました。

個人的にまずご紹介したいのが、これまでシリーズではゲーム開始からクリアまで全て一繋ぎの物語だったのに対し、4では全部で5章仕立ての分割された構成になっている点です。

この物語には勇者を含め8人の旅の仲間が登場するのですが、なんと主人公(勇者)は最終章である第5章まで登場せず、第1~4章はそれぞれの素性を持つ仲間達の旅の始まりと目的と人格が細かく描かれており、一旦プレイヤーはこの全員を主人公として扱い濃密に自己投影した後、最終章の物語を進めていくうちに4章までに登場した仲間達が1人また1人と勇者の元に集っていく、という何とも胸アツな展開に当時の僕の少年心は鷲掴みにされたました。

またこの仲間達がいちいち個性的かつ魅力的で、物語を有機的に描くための必要な材料という事なのでしょうが、ドラクエに「キャラゲー」としての演出が確立され始めたのもこの4からです。

また僕の世代(昭和50年代生まれ)の特に男の子(だった人)からすると、例えば現代では割とよく聞くようになった「AI」という単語を初めて耳にしたのもドラクエ4だったのではないでしょうか。

割とこれ以降のドラクエシリーズではおなじみになったシステムですが、勇者以外のキャラクター達が、プレイヤーによるその都度の指示ではなく、大雑把な行動指針を与えるとこれを基準に自分で考えて戦闘をこなす、というものでした。

これには思った通りに動いてくれない仲間たちに返って悩まされた記憶は、恐らく当時のプレイヤー全員にとってのあるあるだとは思うものの、こういった意図せぬ形での試練も含めて、このゲームは異彩を放っていたと感じます。

そして4では初めて勇者に性別の概念が明確に付与されました。

実は3にも男女の設定は存在するのですが、その後次世代の機種に移植される以前のファミコン時代には、ビジュアル的にも物語的にもパラメータ的にも男女どちらの設定を施すにせよ、一切違いはありませんでした。

しかし4では、男勇者を選んだ場合、5章の冒頭に登場する幼馴染の女の子が恋人に近い存在として、女勇者を選んだ場合は親友として描かれており、ほんの少し物語の味わいが変化する点と、画面上も含めて男女の選択によるキャラデザインが全く別ものとなっていました。

また直接的なゲームの内容に直接関りはないものの、このキャラデザインが3までのかわいらしいデフォルメレベルから、よりリアルに近い等身に大幅変更された点も4からの新要素で、上記で述べた通り「1度はメインキャラ全員が主人公になるシステム」において、プレイヤーが投影する人格的イメージとの解像度にも明らかな影響を与えていると感じています。

またドラゴンクエストは3までを「勇者ロトの3部作」と一区切りし、4からは「天空シリーズ」として仕切り直されているのですが、この大胆なキャラデザインの一新はそれが直感的に理解出来る仕組みにも一役買っていると感じています。

そしてパッケージイラストですが、サブタイトルである「導かれし者たち」とある中、7人の仲間達をバッサリ切り捨て、本来であればゲーム中はどちらかを選択するため共存得ないはずの男女勇者2人のみを使ってデザインされている点がまずは印象的でした。

画面奥でうっすら笑みを浮かべる男勇者と、手前で勇ましく剣を振りかぶる女勇者という絵柄に対し、これまでのパッケージイラストに感じる覇気とは少々趣が違い、男勇者がセピアで表現されている点もあってか、いずれも躍動的なポージングなのに反してどこか物悲しい印象を受け、このミステリアスなイメージ作りにもロトシリーズとの毛色の違いを表現する意図があるように感じます。

思えば3までのロトシリーズでは「世界を滅ぼさんとする悪の元凶に立ち向かう主人公」という分かりやすい勧善懲悪的図式だったのに対し、4は魔王の心が悪に染まったきっかけといった、敵方の心理的背景にまで物語として踏み込んでおり、かつ勇者側もその後の全シリーズ含めた中でも旅立ちにおいて最も深い悲しみを背負っており、このパッケージイラストはこういった背景の全てを1枚の絵の中に収める事は出来ないまでも、まず初見で感じる印象に以上にプレイヤーによるゲームの進行度が深い程、よりドラマティックに染み込んでくる演出、と言えるのではないかと僕は考えています。

また逆から考えると、例えば旅の仲間全員を画面に登場させた場合、それぞれのキャラクター性がとても高いため、恐らくどういった構図にしても前向きで強いイメージ作りを回避できない点が、恐らくこの物語を象徴する一枚として制作されるに当たって蛇足と感じたからではないかと、長々と勝手な憶測ではありますが。

※また余談ではありますが、僕は個人的にこの4の勇者のデザインがどちらも本当に大好きで、色々理屈を書いてはみたものの、単純にカッコよくて一目惚れでして、たまらずこの記事のタイトルにも描いてしまいました。

ドラゴンクエスト5
この5では、システム的な部分での最も大きな変更部分は「敵キャラを仲間にし、更に育成できるようになった」という点でしょう。

4でも実はイベント上、仲間になるモンスターは存在するのですが、5ではストーリー上のイベントで戦うボスキャラは不可能ではあるものの、スライムに始まり終盤の強敵に至るまで、フィールド上でエンカウントするタイプのモンスターはかなりの種類を味方に付ける事が可能で、パーティー編成に組み込んで戦闘にも参加させ、ものによっては主人公たちを超える程の成長を見せるものもありました。

更にこちらはシステムというよりは演出で、しかしこれこそがこの作品の一番の魅力であると考えられるのですが、5以外のシリーズは基本的に勇者の「冒険の旅」を描いた作品であるのに対し、5は幼少期から始まり、青年に成長し、結婚、出産、子供たちと共に冒険、と、イマドキの言葉で言う所の「ライフステージの変化」があり、シリーズ中「時間を移動するストーリー」を持つ作品は他にも存在しますが、ここまでゲーム開始からクリアまでの間にここまで「長い時間が経過するストーリー」は5固有のものです。

また、ここから発売ハードもスーパーファミコンへと変化しているため、パッケージデザインもファミコン時代にメジャーだった横位置から縦位置に変更されており、デザインの基本のような事を言えば「多くの要素を入れ込む(横)」よりも「主体になるものにクローズアップする(縦)」のに適したスペースの取り方と言えます。

そして今回のパッケージイラスト表現の大きな特徴として、4までのイラストは勇ましいイメージ作りのポーズを取らせた「キメのカット」であったのに対し、5は主人公とヒロイン(の1人)に加えて複数のモンスターが、敵としてではなく主人公に連れ沿う形で描かれており、明らかに戦闘ではなく旅の移動中の一瞬を切り取ったかのような、自然体に近いシーンが描かれている点がまた印象的でした。

例えば勇者(青年期)の服装に一部破損してい箇所や、ヒロインの表情にピリッとした様子が伺えたりと、その道のりが平坦ではない事が表現されてはいつつも、しかしながら敢えて「それが彼らの日常」といった趣で描かれた意図は、上記の通りこの作品に関しては単なる「魔王討伐冒険記」ではなく、主人公の半生を描く「人生の旅の記録」でもあるから、という事を表現するためなのではないか、と僕は考えています。


と、勝手な解釈と憶測を元に色々書いてみましたが、多少は合っていたり外れていたり、誰でも分かるレベルの話を長々と書いていたりもするかと思いますが、まぁあくまで個人的な解釈と言論の自由と受け取って頂き、特にファンの方々はご容赦くださいませ。

ただ、自分が仕事としてイラストを描く場合も、作品のスケールやジャンルに差こそあれ、内容への理解と表現による補完とリード、という意味では似たような事を考えながら毎回責任もってやらせて頂いており、と言うにはちょっとおこがましいので、単にファンなので書いちゃいました、とさせて下さい。