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自己紹介

はじめまして!筆者のTAICHIです。
自分が思っていること、人と少し違った経験ができた時の事柄などをnoteに書いて自分に興味を持った方と一緒に情報共有ができたらと思っています。


生立ち

プロフィールにもちょこっと記載していますが、
日本と台湾の父と母を持つ日台ハーフとして生まれ今まで生きてきました。
でも生まれも育ちも日本なので見た目は日に焼けた色黒な日本人です 笑
しかも、生まれた時には父はすでに58才、母は38才と...
情報が多いですね 笑
そうなんです。国際結婚&歳の差20!自分が幼稚園入園した時には父還暦終えていたというとてつもなくネタが豊富な家庭で生まれ、成長をしてきました。

サッカー

小学1年生からサッカーを始めて高校までチームに所属してプレーをしていました。大学でも部活に入ってサッカーしたいなと思っていましたが、留学のプログラム規定で大学で本気でサッカーを続けるのは難しかったので、留学の権利を勝ち取るまではお休みをしました。留学後は留学先の大学のチームに参加しサッカーを通しその地のサッカーを楽しみました。
大学卒業後は、台湾の大学院に進もうと準備を進めていましたが、現地でサッカーに携わっていた方と知り合い、サッカーの指導の道に進みました。
また、台湾サッカー協会へJFAから日本人指導者の派遣が行われており、その方の臨時通訳というチャンスを頂き、そこから台湾U13,14の代表チームの通訳兼アシスタントコーチとして素晴らしい経験をさせて頂けました。
そして、語学と指導ができるということからFC今治の岡田会長からお話を頂き中国で指導者としてたくさんの経験をさせて頂いた後は、絶賛ニート生活堪能中となっています 笑 (コロナの影響により、台湾への渡航ができない為)

語学(中国語)学習のきっかけ1

中国語アレルギー発症幼少期の中国語アレルギー発症の経緯をまず説明すると、以下のようになります。
まず、
日本の言語環境、方言がほぼない、あっても聞き取れる(例外有り)
台湾(中国語、台湾語、客家語、原住民語、日本語)を使う。使える人が多い。そして母は中国語、台湾語、原住民語、日本語ができました。
母の実家に戻ると、4つの言語混ぜて使いコミュニケーションをとっていました。一般の台湾の方は中国語と台湾語+年配者の日本語が多いのかと思います。
母という単語で例えると
日本語   お母さん
中国語   マーマ
台湾語   アーブゥ
原住民語  ヤキ
客家語   ごめんなさい知らないです 笑
とかなり違います。
僕はこれだけ違った言語を一括りにして中国語だと思っていました。子供なので吸収力はあって色々な単語を覚えていたようです。しかし、一般の台湾の人と話すと通じないのです。これが結構なトラウマのようなものに落ち入り中国語を聞くだけで機嫌が悪くなったり、「俺日本人だから、中国語わからない!」の一点張りで幼稚園の年中ぐらいから中学3年ぐらいまでつき進みました 笑

語学(中国語)学習のきっかけ2 

アレルギー発症から、どうやって方向を転換したのか、
それは「死」でした。
初めて身内を亡くしたのが中学3年生の時、小学生からサッカーを始めたので、空いている時間はサッカー。台湾へはほとんど戻れませんでした。
幼稚園ぶりの台湾、幼少期は使う単語も簡単だったので日本語だけでも普通に過ごせました。しかし、おじいちゃんを亡くして初めて気付いたのです。

「日本語が話せる人が少なくなっている。親戚と会話が続かないし従姉妹と全く会話ができない。」 この疎外感は今でも覚えています。この時、話すことが全くできなかったので1人の時間が多く色々と考えました。

そして、中国語を学習しようと思った決定打が、
ふと「母ちゃん死んだらどうなるんだろう」と思った瞬間です。

そして、高校に進学後、ふと見た大学の指定校推薦欄に外国語学部中国語学科があった時、中国語を勉強しようと決めました。

最後に

時系列だとこんな感じです。
0〜5歳     日台ハーフTAICHI誕生! 中国語アレルギー発症。
6〜12歳   サッカー最高!
13〜15歳 サッカー最高!祖父死去、あれ中国語できないとヤバイ?
16〜18歳 サッカー最高!指定校欄に中国語学科見っけ!ここ行こう!
19〜23歳 台湾・中国留学、留学先でもサッカー最高!
24〜28歳 中国語できるようになってて良かった!サッカー最高!
今     絶賛ニート生活堪能中! 

こんなTAICHIと申しますが、今後ともよろしくお願いいたします!
色々な情報を発信していきたいと思っております。

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