見出し画像

摩擦感傷旅行

 金木犀の香りが漂ってきた。私が「お姉さん」と呼ぶ大好きな女性の香水がその香りだった。今も使っているのかはわからないけれど、金木犀の香りをかぐと、彼女のことを思い出す。そして、この時期に誕生日を迎える過去好きだった人のことを思い出す。
 彼は、私の「理想の夫像」を体現した人だった。ビールが好き、巨人が好き(私は嫌いだけど)、いじられ上手で聞き上手、やさしい低い声、暖かい手。この人のことは、スチャダラパーや真心ブラザーズを聴いたときも思い出す。私が今まで好きになった人は、ほぼ皆音楽好きだった。一人一人に思い出の曲がある。そして、たまに街角でふとその曲に遭遇し、微笑んだり、泣きそうになったりして足を止める。


 人間は忘れる生き物で、辛い出来事を忘れることで昇華していく。そうでないと生きていけないらしい。なるほどどんなに辛い出来事でも10年経てば「そんなこともあったね」と言ってしまえるのだが、この、音楽と香りは、暴力的なまでに強引に過去へ連れ戻す。そんなときの記憶はびっくりするほど鮮明で、傷口も開いたままで、なすすべもない。ただ、これは私だけでなく多くの人が経験していることだと思う。そういうものがあるということが、感覚的に豊かであると、せめて思いたい。そう思わなければ、いちいちすれ違う人の香水の匂いにうちのめされてしまう辛い体験でしかない。


 ここまで書いて、田舎に住んでてよかったなぁと思った。満員電車や雑踏、商業施設、そんなものがないここ鹿屋では、なかなか思い出を喚起させるものに出会わないでいられる。果たしてこれは幸福なのか不幸なのか?いや、文化的には良くないとハッとする。


 一つくくりに言ってしまって申し訳ないのだが、田舎の文化レベルが低いのは、人と人が巡り合わないこともそうだし、先に書いた思い出との摩擦がおきにくいことも要因としてあるのかもしれない。
 コロナ的な話をすると、人口密度から見ても普通に生きてるだけでソーシャルディスタンスをとっていて、ただでさえどこへでも自家用車で出かける田舎者の私たちが、さらに「疎」に拍車をかけられ、人と人の摩擦が起こらなくなっている。これは文化的に真綿で首を絞められるようなものだ。ここへきて、大隅半島でアナログなフリーペーパーが雨後の筍のように創刊されているが、なんだかわかる。全部に目を通しているわけでは無いのでわからないけれど、「人」にスポットをあてたものが多いような気がするのだ。
「人恋しい」「かまってほしい」「声が聞きたい」
 下手をしたらウザがられうような言葉だけれど、創作をしている人で、誰からも見られたくないという人はほぼいないと思う。言論人が公開生放送中にも関わらず喧嘩したり、泣いたりしているのも、そういうことなのかもしれない。



 「ドンナ」の香りで私のことを思い出し、立ち止まってくれる人が、日本のどこかにいるはずと自己愛に浸り、アン・ルイスの「グッバイマイラブ」の歌詞を反芻して「疎」の秋の夜をなんとか過ごす。
「忘れないわ あなたの声 優しい仕草 手の温もり
 忘れないわ くちづけの時 そうよ あなたの あなたの名前」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?