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お母さん、ごめんなさい

 私の母は、会話泥棒だ。私が話し始めると、必ず「お母さんもね」「お母さんなんかね」と言われて、既に何十回も聞かされた話をされる。特に盗られやすいのは「北海道」の話である。その話についていうと、母は6年間北海道に住んでいたので、誰に話をしてもうらやましがられるらしく、十八番である。確かに初めて聞く人にはとても面白いだろう。シャケの筋子を買ってきて、バドミントンのラケットでポロポロにほぐして醤油漬けを作る話とか、襟裳岬は本当に何もないとか、「北の国から」の舞台となった富良野のラベンダー畑や五郎の家は本当にあるとか、日髙地方で取れる昆布や本物のシシャモの美味しさなど、「すごーい!」とか「行ってみたーい!」と言われるのは必至だ。


 だが、私はもう、母が北海道に住んでいた時から今まで、15年以上も同じ話を聞かされ続けている。遊びに行ったことがあるので、私も北海道の素晴らしさは知っているのだが、テレビや、母の友人から「北海道」というワードが飛び出してしまったときには、うんざりする。またあの話をするのか・・。しかも人の話の途中ではないか・・と。


 そして、母は私に友達の話をよくする。私にとっては全然知らない人だ。〇〇ちゃんの孫は〇〇で働いていてね〜、とか、〇〇さんは今、どこそこが病気で入院しているらしい、など。私としては全く知らない人の話なので、「ふ〜ん」としか言いようが無い。たまに「すごいね〜」とか「良かったね〜」も織りまぜながら聞き流すのだが。


 先日、その友達とはどんな話をするの?と、聞いたところ、「昔のこととか、病院のこととか、夫の愚痴とか、みんな同じことをいっつも話してるよ。」とのことだった。「そんなんで面白いの?」と聞いたら「みんなでワイワイするのが楽しいんだよ」と。


 みんなでワイワイするのが楽しいのはわかるのだが、同じ話ばっかりして面白いのだろうか?不思議でならない。どうしてしまったんだろう。母は認知症でもないのに、どうして幼稚なことしか話さなくなってしまったんだろう。そして母はこうも言っていた「みんな、自分の話ばっかりするよ。私もそう。年寄りはそうなの。自分のことばっかりなの」と。


 母はジャニーズのアイドル「嵐」のファンである。先日櫻井と相葉が同時期に結婚したニュースが流れ、母は興奮気味に私に聞いてきた「嵐はニノくんと、大野くんと、櫻井くんと、相葉くんと、あと1人誰だっけ?まだ結婚しないのかね?」と。その日は公私ともに忙しく立て込んでおり、心身ともに疲れていた。父が夜警の仕事でいない時は怖いから泊まりにきてと頼まれているのだが、正直、泊まりは荷物が多くなり、行ったり来たりがとても面倒だ。しかし「一人でいるのが怖い」と言われて高齢の母を放置出来るほど私は冷たくない。でも、心のなかでは「わざわざ来てあげている」という気持ちだったのかもしれない。


 そんな時に「嵐」の質問である。猛烈にイラっとした。なぜだろう?疲れて帰ってきたところに、私にとってどうでもいい話をされたからだろうか?母の興味が自分の息子よりも若い「嵐」というアイドルにあるからだろうか?


 子どもの頃の話だ「ハエとかゴキブリとかいない世界になればいいのに」と言った私に母は「ハエとかゴキブリも生きられない世界では人間も生きていけないんだよ」と教えてくれた、その母とこの母は本当に同一人物なのか?


 思わず私は「私の前でそういう話は二度としないで」と言ってしまった。最近の母は子どものように思ったことがそのまま口から出てくる。「なんで?お母さん嵐が好きだから気になるんだもん」しょんぼりとして、たどたどしい足取りで自分の部屋に帰ってしまった。

 ごめんなさい。いつも後悔してしまう。母はなんにも悪くない。ただ、歳をとってしまっただけだ。腰が悪くてあまり動けないから、遊びに来てくれたお友達を話をすることや、テレビを見るくらいしか娯楽が無い。なのにたまに来る娘はいつも疲れていて、つまらなそうにしている。母は77歳だ。先日癌が見つかって、手術することが決まっている。その癌の手術が終わったら、また腰の手術だ。


 考えてみた。今、母が死んでしまったら私は泣くだろう。母がこの世からいなくなることも悲しいが、それより、母に優しくできなかったことを思い出して泣く。「お母さん、ごめんなさい」と言って泣くだろう。母には何をしても許されると思う甘えだ。私の方が母に甘えているのだ。


 先日私がコロナワクチン接種を受けたとき、母がわざわざ「大丈夫?具合が悪ければご飯を持っていくよ」と言って電話をかけてきてくれた。どうして私はこんな優しい母に似なかったんだろう。嵐に興味はないけれど、話は奪われてしまうけれど、今度から彼女の話を聞いてあげよう。甘えるばかりではなく、甘えさせてあげよう。母の近くにいるのは父と、娘である私くらいしかいないのだから。そして残された時間はそう長くはない。

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