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1.セットアップ ― 翔

「改めまして、入学おめでとうございます。早速ですがオリエンテーションを始めます。お手元に冊子が3冊…」

資料一式を手に講義室を抜け出し、喫煙所で一服しながら電話した。

「抜けたから、そっち行くわ」

リトルシガーの濃いメンソールはいつでも落ち着く味だ。ベンチに座り前かがみになって地面に落ちる灰を見ながらため息をついた。静かで穏やかな空気だ。けたたましいバイブ音が鳴りやんだところで、ジャケットの内ポケットからケータイを取り出し着信を確認した。そのままポケットにしまい、真人のいる軽音部の部室に向かった。

「いらっしゃい。」

扉を開けると真人とバンドメンバーが練習の準備をしていた。浦賀真人。高校からの唯一の友人だ。大学入学前からこの部室には遊びに来ていて、メンバーとはすでに顔なじみだ。ドラム横に置かれたソファーが俺の席だ。ここに座って台本を読む。高2の時から制作会社でバイトを始めた。今回はミュージカルの演出補佐をすることになったが、ミュージカル自体がはじめてで勝手がよくわからない。まずは台本を叩き込めと言われ、時間さえあれば本を開いていた。

ベースの低い音が鳴りはじめ、バスドラムやタムの音がそれに続き、ギターの調弦が終わると練習が始まる。このセットアップの時間が好きだった。何かが始まる前の、整う前のそれぞれの時間。バラバラに鳴っていた音が一瞬消えて、呼吸と共に音楽になる。アップテンポの曲から始めて、だいたい3曲目くらいにバラードを挟むのがこのバンドのスタイルだ。コピー曲が終わりオリジナル曲のサビに入る直前だった。

「ストップ、ストーップ。入部希望?」
「はい、芸術学部音楽制作専攻の滝スミカです。」
「同じく、音楽制作専攻の武川朱里です。」
「朱里?」
「…翔先輩?」

思わず口に出てしまった。驚きすぎて、そのまま台本に目を戻した。武川朱里。昔、好きだった後輩だ。とはいえ、告白したわけでもなく、付き合ったわけでもない。だから朱里は俺の気持ちには気づかなかっただろう。台本に顔を向けながら、もう一度、朱里をみた。着飾らないところは相変わらずだが、どこか少し雰囲気が違った。大人になって落ち着いたというのとは違う、どこか壁があるような冷たい空気を感じた。

閉校まで居座ったが、一行も覚えられなかった。正門でメンバーや朱里たちと別れ、真人と二人でファミレスへ行き、いつも通り作業を始めた。バイトとは別に、夏に真人たちが計画している対バンステージの演出を担当することになっていた。

「翔、おまえ部室でぼーっとしてただろう。」
「台本、読んでた。」
「いいや、一文字も読んでなかった。」
「何が言いたい。」
「彼女だろう、朱里ちゃん。お気に入りちゃん。」
「言い方。」
「何も言えずにフェードアウトした、ひとつ下の女子。彼女を怒らせた原因。」
「それは…」

否定できない。表現すること、言葉にすることが苦手だ。だから時に相手を怒らせるというか話す前に相手がいらだちはじめ、大概もういいと言われてしまう。そのたびにどこかで朱里を思い出していた。彼女は一方的に話をしていたが、俺の話もきちんと聞いてくれた。テンポを合わせてくれていたのかもしれない。朱里と彼女を比べてしまう自分も自分だが、でも今回の喧嘩の原因は違う。

「潮時なんだよ、そろそろ。」
「別れるのか。」

簡単に整理すると、浮気された。愛想つかされたのだ。二股をかけられているとわかった日、彼女のキスを拒んだ。その先は、何でから始まる質問攻めにあい、話すべきなのかと迷っていたら、ビンタを食らった。俺もアホだ。シガーをふかすだけの俺に真人はそれ以上、彼女について聞くことはなかった。

大学の講義とバイトの両立は思ったよりハードで、木曜の夜にバイトがあると金曜1限は徹夜して出席するというほどだった。空き時間は部室で真人たちのバンドとつるんだ。そして4月も半ばとなり、公演が2日後と迫っていた。ここまでくると演出は確認作業に入り、ただひたすらにダメ出しをメモすることが仕事であった。練習とは違う部分やミスを控え確認していく。今は俳優を含めたテクニカルリハーサルの真っ最中で、舞台監督と演出家に付いて回っていた。休憩時間になり客席でノーと整理をしていた時だ。

「上がってからちょっといい?」
「何時になるかわかんないけど。」
「いいわよ。家に来て。待ってるから。」

女優のケイト。この作品で唯一の女性キャストで、数日前に喧嘩した張本人だ。スタッフとして初参加した作品の打ち上げで声を掛けられ、付き合いだした。彼女はすぐにスターになり、舞台からは離れていったから仕事で会うことはほぼないだろうと勝手に決めつけていた。だから今、半端なくやりにくい。

23時過ぎに上がり、彼女の家に着いたときには0時を回っていた。受付で取り次いでもらい、エレベーターに乗り込んだ。そして火を付けずくわえていたシガーを手にとり、玄関のドアノブを引いた。
腕を組みソファーに座っているケイトが見えた。何も言わず彼女の隣に腰掛けた。さて、何を言われることか。一方的なケンカ以来、お互い一度も連絡をしていなかった。バイト先では女優とスタッフであり、関係を知られるような行動はしない。だから話しかけてきたということは、それなりに大事なのだろうと考えた。

「はじめてね。こんなに長く連絡しないの。」
「あぁ。」
「いつもみたいに家に来るって言うの待ってた。」
「バイトと講義で忙しかったから。それに稽古場でいつも会ってたし。」
「それは仕事でしょう。会ったことにはならないわよ。」
「明日、早いんだけど。要件、何。」

1分。顔も合わせず、一言も口にしなかった。
それから3分。微動だにしなかった。
さらに5分。ため息をついた。それでも口を開くまで待った。

「別れようか。」

その言葉に動揺することなく、ポケットに入れていた合鍵をテーブルに置いて立ち上がった。

「帰るわ。」
「それだけ?普通、理由とか聞くでしょう。考え直せとか。俺が悪かったとか、何もないの?」
「俺のもの、捨てといて。」
「いやよ。自分で処分して。」
「もう来ないから。全部捨てるか、男にでもやって。」
「何よそれ、男って。翔、まさか。」

彼女の言葉を遮るように玄関のドアを閉めた。それ以上は聞きたくなかった。というか、正直悔しい部分もあった。ケイトのもう一人の相手は映画の主演を何本もこなすような大物で、男も惚れるほどの大人の男でとても相手にならない。俺が女だったとしても、たぶん同じように俺を捨てる。ケイトにとって俺は遊びというか、ペットに近いようなものだっただろう。どうやって別れ話を切り出したらいいのか悶々としていたから、言われてすっきりした。小雨のなか、シガーをくわえてジャケットのフードをかぶり歩いた。

次の日から千穐楽まで、目が回るほどの忙しさにかられたおかげで、公演以外のことを考えずにすんだ。ケイトとは毎日顔を合わせるが、あいさつとダメ出しくらいしか絡むことはなかった。連日満席の大成功、好評を得て公演は幕を下ろした。最終日の打ち上げは全員参加だが、酒が飲めない俺は注文係と酔っ払いの介抱担当だ。3時間ほどで二次会組と帰宅組に分かれるが、俺は帰宅命令を出される。子ども扱いのようにみえるが、逆に抜けられなくなることを考えるとありがたい。店を出てあいさつをして帰路についた。これで全てが終わったと安堵した瞬間、目の前がかすんだ。

「何なんだよ。」

終電前だったが2駅先の家までフードをかぶり、ひたすら歩いた。玄関のかぎが開いてた。

「お疲れ。」
「いつ来たんだよ。」

キッチンへ行き、コップ一杯の水を飲みほした。

「終わったか。」
「あぁ、今日、千穐楽だった。」
「彼女とは。」

言葉の代わりに涙が溢れた。こんなにも虚無感に襲われるのは想定外だ。作品を終えるたびに押し寄せるそれとダブルで襲われたからか、どうにも止まらなかった。真人は何も言わず、一晩つきあったくれた。


「おはようございます。先輩、一人ですか?」
「えっと、ごめん。朱里の友だちの。」
「スミカです。翔先輩って呼んでいいですか?」
「うん。でも俺も1年だし、先輩はちょっと。」
「そうなんですか?でも朱里が先輩だって。」
「歳は1つ上だけど、君たちと同期だよ。」
「てっきり再履修かと思いました。でも朱里が先輩って呼んでるし。あ、ちなみに朱里は遅刻なんで、あとで後ろから入ってくると思います。」

聞いていないことも親切に教えてくれた。きっと朱里と俺の関係を知ってのことだろう。
教授がドンっと教卓に本を置き、授業を始めた。バイトがひと段落して落ち着いて講義を受けられる。
スミカが言ったとおり開始15分ほどで後ろのドアが開く音がした。朱里だった。低姿勢でそろそろと入ってくる彼女を見て、懐かしさに肩を叩いてみた。何も言わずそのまま前の席に着いた。

「来週までにウエストエンドの作品を必ず1本見て、レポートを提出すること。以上。」
「ありがとうございました。」

朱里とまともに顔を合わせられない気がして、すぐに部室に向かった。

「いらっしゃい。」
「おぉ。箱が決まったって?」

夏の対バンの打ち合わせだ。場所が決まればあとは彼らの楽曲リストから雰囲気に合わせて照明プランを作成するだけだ。他大学のバンドと合同での開催で、400名キャパの素人集団としては大きめのハコだ。これからの段取りの打ち合わせをしていると、誰かが扉を開けた。

「いらっしゃい。」

真人お決まりの迎え言葉に扉のほうを見ると、そこにはスミカと朱里がいた。空き時間に練習しに来たのだろう。

「そうだ。スミカちゃんたちも夏の対バンに出てみない?」
「いや、まだ無理ですよ。やっと1曲仕上げたばかりですし。」
「8月までまだ余裕あるから、いけるでしょ。」

真人らしい提案だ。ステージパフォーマンスを学ぶ学生としては、ステージに立つことは経験としても大切だ。彼女たちがどのくらいの気持ちでバンドを始めたかにもよるが、急な提案だからすぐ決まらないと思っていた。

「実緒、出るって。あとは朱里だけだよ。」
「大丈夫でしょう。もし不安なら、オレがギターで入ってあげるよ。だから出よう。翔もそう思うよな。」
「俺に振るなよ。まあ、いいんじゃない、やってみれば。」

このスミカという子はまっすぐで決断が速い。結局彼女たちも出ることになったが、朱里のどことなく浮かない顔が気になった。打ち合わせを終わらせた真人はギターを手にスミカとセッションを始めた。あどけないベースの音に澄んだアコギの音が心地よく寄り添っていく。真人のギターは主張せず柔らかい音色で、真人そのものだった。その後ろで黙々と楽譜に向かっている朱里。眉間のシワが校庭の石階段に座っている彼女に声をかけた日を思い出させた。

「今日はここまで。みんなもう講義ないよね。ちょっとさ、ドライブでも行かない?」

真人の気まぐれだった。暇さえあれば行く海辺のカフェでランチをして、海沿いをみんなで歩いた。はしゃぐ女子を一歩引いて眺めている、なんとも照れくさい理想的な雰囲気だろう。

「翔さ、実際のところ、朱里ちゃんのことはどう思ってんの。」
「どうって、彼女に捨てられて1週間の俺に聞くことか。」
「よく言うじゃん。女の傷は女で癒すって。」
「な、もっときれいな言い方ないのかよ。」
「ありなんじゃないか、そういうのもさ。」

そういうと彼女たちの方へ走っていった。失恋の痛手は新たな恋で。よく聞く話ではあるが、どうなんだろうか。しばらくは疲れることをしたくない。今回はちょっと応えている。気分転換に連れてきてくれた真人には感謝しているが、俺の勝手な感情で振り回すわけにはいかない。

陽が沈むまでたわいのない話で盛り上がり、車では音楽の話が絶えなかった。後部座席にいた俺と朱里は真人とスミカの話をもっぱら聞くばかりだった。

「じゃあ、また明日。」
「スミカ、降りないの?」
「先輩が家まで送ってくれるって。じゃ、翔先輩、朱里をお願いしますね。バイバイ。」

真人は何も言わず笑っていた。昼間の話から彼なりに考えたのだろうけれど、さすがに気まずい。再会してからあいさつもろくにしていないのだ。

「家、どの辺?」
「あの…」
「ついていくから、案内して。」

朱里は必死に何か言わなくちゃと考えているのがわかるほどに、キョドキョドしていた。街灯が点々としていてとても暗い道を抜けていく。いつもこんなところを通っているのかと疑うくらいだった。ついに耐えられなくなったのか、今朝の1限の話を始めた。俺が1年だということをスミカから聞いたのだろう。ということは、なぜ1年なのか聞きたいが、失礼になるのではないかと遠慮しているのだろう。

「高校でさ、学校休みがちで出席足りなくなってダブったんだ。」

たま無言になった。隠すことではないけれど、休んだ理由は言わなかった。朱里の知らない4年間、もし今話したら彼女が失望してしまいそうだと思ったからだ。

「着きました。すみません、遅い時間なのに送ってもらって。」
「遅いから送ったんだろう。」
「すみません。」
「…おやすみ」
「ありがとうございました。おやすみなさい。」

階段を上がっていく姿を見届けて、自分のアパートへ向かった。真人にあれだけ否定したにもかかわらず、妙な胸騒ぎに駆られていた。


ーーつづくーー

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