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BABYBABYの夢、『鬼滅の刃』、『八月の光』、NiziU

著作権という権が気の利いた権であると思ったことは一度もないが、YouTubeから「BABYBABYの夢」が削除され、Artzie Musicが閉鎖(予定)に追い込まれたことで、またひとつ怨念を積み重ねることとなった。

「潰そうと思えばいつでも潰せる」というのは、エンタメ業界にいた知人の言葉だが、まさに仰せの通りだったみたいだ。僕の貧相な想像力では、取り締まりによって誰がどう得したのかすら分からないのだが、きっと誰かどうにか得したのだろう。

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今日、たまたま『鬼滅の刃』公式Twitterを見に行ったのだが、「フォローしている人にフォロワーはいません」の文字列に、刹那、打ちのめされた。日頃から世間との「乖離」は意識せざるを得ないところだが、自分が山奥にいることをずっしりと再確認した。

件の作品は一年ほど前に妹に勧められ、最新巻まで一通り読んでいる。はじめこそ面白ェ面白ェゆうて読んでいた兄妹だが、本誌で追っている妹が最終話まで読んだ末に「ラストがまじでしょうもない」と評価を一転し、コミックで追っている兄は“しょうもない”幕切れを予感しながらなかなか進展のない無惨戦に辟易しているところだ。どうしてこうなってしまったのか。

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最近、講義という名の読書会でフォークナー『八月の光』を読んだ。ガルシア・マルケスはじめ、マジック・リアリズム勢に多大なる影響を及ぼした作家なわけだが、紐解いたのははじめてだ。

①マコンドと比べたとき、ジェファソンという街は、そこにおいて支配的な南部イデオロギーとともに保存されているのが(よくもわるくも)印象的だった。『百年の孤独』は無にはじまり無に消失するという、仏教的な円環構造によって構成されている。これに対し、ジェファソンにおける諸々のしがらみ(人種差別、性差別、その他の理不尽な迫害)は、物語のはじまりにおいて所与のものであり、物語の終わりにおいても本質的には変わらない。聖母のように無垢なリーナは、静かにやってきて静かに去っていく。

②自意識過剰なのけ者クリスマスは、『ジョーカー』のアーサーを連想させたが、両者の行く末は綺麗に対照的だった。アーサーは一貫してシステムに受け入れてもらうことを望んでいたが、決定的な挫折とともに異物としての自己を承認し攻撃に転ずる。早い段階から自虐の悦楽を知ってしまったクリスマスは、最後までシステムに噛み付くこともなく、ぽっと出の右翼に射殺される。前者におけるシニカルなハッピーエンドに対し、後者にはぜんぜん救いがない。

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『鬼滅の刃』に描かれる回想シーンの多さは周知の通りだ。ちょっと前に、Excelで全部まとめてやろうかと思ったが、この手のシニカルさは自覚できる範囲で自制すべきだな、と思いやめた。

「回想シーンばっかり」というのはうんざりする理由のひとつに違いない。もちろん、『鬼滅の刃』における個々の回想シーンが平均して失敗に終わっているわけではない。上限の参・猗窩座が闇落ちするまでの経緯はたいへん説得的だし、獪岳戦で回想される善逸とじいちゃんの過去は善逸という人物をかなり立体的にしている。それにしたって、敵味方構わずほとんどの人物に回想シーンを割くのは、いくらなんでもやりすぎだろう。ここには、物語上の都合を超えたなにかがある。

回想はしばしば物語現在における行為の因果的説明として置かれる(なんで○○するかというと〜〜という過去があって云々)わけだが、機能自体の説明くささもさることながら、『鬼滅の刃』において人を駆動させるのは十中八九が復讐心なのだ。こうなってくると、手を変え品を変え次々に提示される「復讐の妥当性」に共感するよう強いられることになるのだが、これを健康的にやり続けるのは難しいだろう。皮肉なことにも、竈門炭治郎を見た後では、『チェンソーマン』のデンジみたいに大きな実存的動機どころか最低限のヒューマニティすら持たない人物に魅力を感じてしまう。(そういう意味では、両作を並置していたジャンプは戦略に巧みなのかもしれない。砂糖と塩。)

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カムバを前にし、TWICEジョンヨンがメンタルダウンした。昨年から休養していたミナが戻ってきた矢先の発表だ。同JYP所属のNiziUに関しては、正式デビュー“前”にミイヒが体調不良で休止、といういくらなんでもあんまりなニュースも飛び込んできた。

今に始まったことではないが、このような環境から産出されるコンテンツに対して、無垢な消費者でいるのはますます難しくなっている。

Nizi Projectの序盤で、J.Y. Parkは「見えない精神、心を見えるようにすることが芸術だ」という旨の発言している。その後もたびたび「技術だけではダメで、大事なのは心だ」といった旨のアドバイスを繰り返しているが、この手のロマン主義こそ考え直すべきだろうと思う。「心」というなんとでも言える評価軸を導入することは控えめに言っても不当だし、活動の隅々にまで実存を掛けるのは不健康だ。

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『八月の光』に関して、講義参加者一同よくわからなかったのが牧師ハイタワーの立ち位置だ。狂信者として迫害されながらも、祖父に関係したパラノイアからジェファソンに固執する彼は、たびたび聞き手として物語に登場する。本作は構成も奇妙で、中盤にクリスマスの生涯が置かれ、全21章の第20章にハイタワーの過去が置かれる。物語の比重は明らかにクリスマスの周辺に置かれているにも関わらず、この目立った動きもない牧師の過去が最終盤に描かれるとはどういうことか。

第20章におけるハイタワーは自らの死を静かに待つ(なんなら死ぬ間際の)老人である。回想はしばしば物語現在における行為の因果的説明として置かれるわけだが、彼の半生を通した「我慢」は、その過去を聞かされてもなお「ピンとこない」というのが正直なところだ。その名の通り高みの見物を続け、ようやく事件に関与しようとしたときにはクリスマスにぶん殴られた上、すでに手遅れというのも不甲斐ない。しかしながら、クリスマスの生涯に関しては類稀なる自意識の旅を描いた本作が、ハイタワーという登場人物の組み込みに失敗している、とは思えない。などと考えていると、いつのまにかハイタワーという人物に関して、こちらが納得するような説明を求めている自分に気づく。それから、この偏執狂な人物に関しては、「そっとしておく」のが実は適切な解釈なのではないかと気づく。彼の受難は彼の選んだものではないし、おそらく、彼の我慢ですら彼の選んだものではない。

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回想の多さに関して引き合いに出されるのは『ONE PIECE』だろう。こちらも一応ワノ国まで追いかけているが、同じく、ある種のテンプレートを見出した途端に消化試合になってしまいかねない作品だ。もちろん、『ONE PIECE』における個々の回想シーンが平均して失敗に終わっているわけではない。王下七武海ドフラミンゴが夜叉となる経緯はたいへん説得的だし、「生ぎたいっ」の直前に回想されるオハラの一件はロビンという人物をかなり立体的にしている。

ところで魚人島編にて、なんら説得的な過去=動機を持たないにも関わらず暴力を働くホーディ・ジョーンズが「実体のないバケモノ」呼ばわりされていることは、『ONE PIECE』における人間観を暴露している。すなわち、過去=動機を持たず行為する者は、それを持って行為する者に比べ、実存的に劣っているのだ。実際、魚人島編の幕切れにおける歯切れの悪さも、「正論でもって屁理屈を退けた」という(いつもの)エクスタシーの欠如に由来している。あるのはただ「やられたからやり返してやった」というインスタントなスカッと感だ。

ここで、「実体のないバケモノ」タイプの悪役像が鬼舞辻無惨に引き継がれているのは言うまでもないだろう。「病状が悪化していくことに腹を立て」担当医を殺す、という理不尽すぎる過去からして、無惨様の動機は理解の埒外にある。自らの蛮行(パワハラ)を自然災害と類比させる彼には、実存など求めようもない。すると、コミック数巻分を費やして彼を討伐したところで、ホーディ・ジョーンズと同じ歯切れの悪さが待っているのは容易に想像される。妹の曰く“しょうもない”ラストがどういうものかまだ見ていないのでわからないが。

ホーディ・ジョーンズにせよ鬼舞辻無惨にせよ、ここで前提として、動機の欠如は不気味で許しがたいものとみなされている。彼らになんらかの悲しい過去があったとすれば「まだマシ」なのだ。心がこもってなきゃフェイクだという前述のそれに他ならない。これは、悪事以前の評価だ。

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おそらく、僕は『鬼滅の刃』をぜんぜんフェアに読んでいないのだろう。それはそうと、本作の人気が物語消費というより、キャラクター消費であるというのも分かる。ついでに、好みでないものについて文字数費やすことの俗悪も分かる。

ただ、実存やら心やらを過度に要請するべきではないと思うばかりだ。もっとスカスカで即物的でもいいじゃない。竹内まりやを勝手にサンプリングするとか。

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