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感想と批評の境界線:北村紗衣『批評の教室』

書評タイトルは源河さんの本から来ている。源河さんが「知覚と判断の境界線」はあいまいであると結論づけるのと同様、私は感想と批評の境界線があいまいだと結論づけることになるだろう。

北村紗衣『批評の教室』は、批評という営みの敷居を下げる本だ。「チョウのように読み、ハチのように書く」という副題の通り、本書は芸術作品(主には文学、映画、劇作品が参照される)について軽やかに読解し、クリティカルに論じる手引きとなっている。

実践編の第四章を除けば、本書は「精読する」「分析する」「書く」という三章立てになっており、それぞれにおいてさまざまなノウハウが紹介される。特に、第二章「分析する」では、物語のタイムラインや関連作品のチャートを作るといった具体的な作業が実例とともに紹介されるため、読者は実際の手の動かし方から作品分析を学べる。単純化を恐れることなく言ってしまえば、それらノウハウは〈じっくり鑑賞し、根気強く情報を集め、シャキッと書け〉とでもいうべき方針で一貫しており、読者はそこで規範とされる「じっくり」「根気強く」「シャキッと」とはどういうことなのかを教えられることとなる。

この本の美徳のひとつは、特定の批評理論(大文字のThoery)に与することなく、ニュークリティシズムだろうと新歴史主義だろうと、気の利いたやり方は片っ端から取り入れていこうとする姿勢に認められるだろう。著者の専門はフェミニズム批評だそうだが、そういった特定のアプローチから切り込むことの魅力や注意点についても触れている(82)。

〈じっくり鑑賞し、根気強く情報を集め、シャキッと書け〉といったやり方を推進するのは、とはいえもちろん党派中立的ではありえず、合理的営みとしての批評にベットしたものだ。私はそれにベットしているし、本書でも何度か引かれるノエル・キャロルもそれにベットしている。キャロルは意図主義者で、北村さんは(こういってよければオーソドックスに)「作者の死」を掲げる、といった方針の違いがあるにせよ、そうなのだ。そういう意味では、著者の方針は私にとってシンパシーを感じられるものであった、というのは認めるべきだろう。北村さんやキャロルがおそらくそう考えているように、私も批評というのはなんら秘技的な営みではなく、誰にでも気軽にできることだし、多少なりとも勉強すれば誰にでもうまくできることだと思っている。(おそらく、と書いたが、「入門書」というのは少なからずその可能性にベットしたものなのだろう)

そして、こういった営みとして「批評」を特徴づけていくことは、言葉の政治に関して必ずしも広く賛同されることではない。前述の通り、そこにはすでに党派性があるのだ。「批評」という語をもっと高尚で専門的な営みを指す語として使っていきたい向きがそれなりに見受けられるのだ。「本書で教えられていることは、感想文やレビューの類を書く方法であり、“““批評““”を書く方法ではない」といった言説は、その一例だろう。クオテーション・マークをたくさん付けた意図は、話者への揶揄である。

実際、そういった向きから、感想文、レビュー、批評文といった(彼・彼女らの認識では)似て非なるテキストの、実質的で受け入れ可能な区別を聞かされたことは一度もない。いずれも、なんらかの人工物を対象として、その記述や解釈や評価を行う点で同じことをしているし、多くの日常的な場面では交換可能な語だ。Tik Tokで本を紹介することと書評さまを書くことの違いにも通じることだが、そんな境界線は、スノビズムのチョークで強引に引かないかぎり存在しないのだ。

もちろん、「日本語の〈批評〉には、英語の〈criticism〉や〈review〉には回収できない思想的・歴史的蓄積がある(あるいはその逆)」といった言説はまったくもってその通りだろうし、そういった機微を調査する歴史研究はえらくて意義のあることだ。しかし、本書に手引きを求めるような読者が、そんなディテールを気にすることは考えにくいし、考えるべきだと言うのは酷だろう。少なくとも本書の意図された読者(私としては「たいていの人」とまで言い切ってしまいたいのだが)が知りたいこととは、自分の好きな/嫌いな小説、映画、劇作品について上手に〈言語化する〉術であって、本書がそれを上手いこと提供しているのは明らかだろう。本書で紹介される批評は、一貫して「自分でもできそう」「楽しそう」なものであり、著者もそう受け止められるよう配慮していることが伺える。

私はFilmarksでコンスタントに映画作品のレビュー(採点およびコメント)を行っており、もう7年とか8年もやっているのだから「レビュアー」を自称することにいささかの抵抗もないのだが、「批評家」を名乗るのは回避できる限りで回避するようになった。「批評」という語の周りには面倒くさい人が多すぎるのだ。それは彼・彼女らの問題であって、私にできるのはそのサークルには参加していない振りをすることだけだ。

いつだって私が知りたいのは、『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』をうまく褒めたり、『ラストナイト・イン・ソーホー』をうまくけなしたりする方法だ。本書はその役に立つような事柄が多く書かれているため、私と目的を共有する人にとっては、機能主義的に見て「良い」本である。もちろん、都合がいいだけでなく、そんなに簡単には褒められないし、そんなにいい加減にはけなせない、といった学びも得られる。


第三章「書く」の最後に付された「人に好かれたいと思うのはやめよう」も読み応えがある。「批評嫌い」に関する話だ。今も昔も、疎まれるというのが批評の宿命らしい。

批評を書く時の覚悟として大事なのは、人に好かれたいという気持ちを捨てることです。批評というのは作品を褒めることではなく、批判的に分析することです。〔…〕しかしながら問題点を指摘すると、作者は怒るかもしれませんし、またその作品のファンも怒るかもしれません。

北村紗衣『批評の教室』(176)

批評は人格とは関係ないものです。ひとつの作品をどう評価するかと批評者の人格は関係ありませんし、作品を批判したからといって作者の人格をけなしたわけではありません。

北村紗衣『批評の教室』(179)

賛同できるし元気をもらえる言葉だが、あまり楽観的にもなれない話題だ。北村さんも指摘している通り、SNS時代では、作品に批判的なことを述べてファンコミュニティから敵視・攻撃される危険性が少なからずある(実体験としても一度ならずある)。良くも悪くも、時代は「思いやりインターネット」なのだ。たとえそうだとしても、上で引用したような割り切り方は、私の信じるところでは芸術文化にとって実りの多い方向を向いており、推進していくべき態度だと思う。

そして、批評嫌いに出くわしたら「批評をして掘り下げたほうが私は楽しいんです(15)」と反論すればいいというのは、まったくその通りだろう。

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