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どうしようもないときはどうすればいいのか:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』を読んだ。
本の内容を要約するなら、「資本主義マジヤバイ。みんな病みまくり、ドラッグ打ちまくり、自殺しまくり」といったところか。疎外論に基づくシステム批判はマルクス主義の常套論調なわけだが、『資本主義リアリズム』に通底するのは、そんな“マジヤバイ”資本主義に対する「もっとマシなやり方」が存在しないだけでなく想像すらできないという、徹底的なデッドロックだ。
僕は、この手の社会批評に関してはボードリヤールのそれぐらいしかわからないが、実際、フィッシャーの諦観は、後期ボードリヤールのそれと重なる。資本主義というのは、たんにキッチュなゲームというだけではなく、参加を強制する点で一層たちが悪い、というわけだ。ゲームは全面的であり、ゲームではない現実を消滅させる。
この手の非人道的なシステムからのリタイアとして、ほとんど唯一実行可能なのが自殺という手段であり、カート・コバーンはこれを選んだ人物として『資本主義リアリズム』に現れる。結果的に言えば、カート・コバーンの自殺はNIRVANAの作品群にリアリティを付与し、レコード会社を潤すことで資本主義システムに加担することになった。
切り売りされているのが、血肉の通った体験ではなく一連の神話であることについて、ボードリヤールはずいぶん前から警笛を鳴らしていたわけだが、90年代にもなってくると啓蒙的な語りは控えめになり、どことなく終末論的ムードを漂わせることになった。ボードリヤールは一層斜に構えた老教養人となり、年をとった分、怖いもの知らずになっていった。911テロに際して言い放った「それを実行したのは彼らだが、望んだのはわたしたちのほうなのだ」というコメントはあまりにも有名だが、これをたんなる無神経として唾棄できないのは、それが資本主義というシステムの肝心要な部分をあまりにもうまく言い表しているからであろう。スペクタクルは、いくらかのビデオアートを作ったぐらいでは一向に転覆できず、“彼ら”と“私たち”は共犯関係を深めるばかりだ。
フィッシャーは然る後に自殺し、批評界のカート・コバーンとなった。病の原因と過程を明らかにすることは、当の病を治療するのにほとんど役立たない、らしい。

現在において支配的な存在論では、精神障害に社会的な原因を見出すあらゆる可能性が否定される。〔中略〕精神障害を個人の化学的・生物学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです)。第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗鬱薬SSRIはあなたを治療することができます)。〔中略〕もし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのであれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう。(『資本主義リアリズム』、pp.98-99)

フィッシャーは露悪にとどまることなく、いくらかの建設的な提案を行っている。上に引用したのはそのひとつだ。「個人的だと言われる問題の社会化・政治化」という、一見してもあまりに自明な課題を再確認しなければならない背景に、リベラリズムの機能不全を痛感させられる。一方で、ここで言われているような社会構築主義しか戦略がないのであれば、そこに方法論的な限界がないわけではない。この種の社会学が、ある種の人たちにはまったく響かない・刺さらないという事実は、昨今のTwitterやはてブを見ていれば明らかだ。「社会構造という実体が存在するエビデンスを出せ」といった具合に。その行く末はまったく神のみぞ知るといったところであり、見届け人としての地位を辞任したくなるのも無理はない。阿彌陀佛。
つい最近、『13th』というドキュメンタリー映画を見た。奴隷制やジム・クロウ法から、いかにして今日の刑務所ビジネスへと繋がるのか、関係者のインタビューとともにその過程を追っている。それは、顕在的暴力による差別から、資本主義リアリズムによる透明な差別への移行にほかならない。資本主義リアリズムは、若者をうつ病にすることで、黒人を囚人にすることで、養分を得ているというわけだ。ストリートにおける黒人の殺害はその末端に吹き出た膿であり、ティッシュで拭いたぐらいじゃ根本的な解決にはならない。
昨年、ビリー・アイリッシュについての論考を書いたのだが、彼女は今シーズンのケースに関しても、まったく彼女らしい仕方で怒りを表明している。ビリー・アイリッシュ流の感情政治が、意図的なのかそうでないのか、建設的なのかそうでないのか、四の五の言うつもりはない。少なくとも、SNSにおける彼女の発言が、そんじょそこらのリベラリズムよりもおおくの人に対して響いている・刺さっていることは間違いない。たとえ一連の態度表明が、資本主義リアリズムにおける彼女の自己PRと連続的であったとしても、だ。フィッシャーには是非、ビリー・アイリッシュについて書いてほしかった。
ところで、批評家のマーク・フィッシャーとは別に、自己啓発家のマーク・フィッシャーという同姓同名の人物がいることを知った。マーク・フィッシャー(自己啓発家)による主著の題は『成功の掟』。読んだことはないが、どのような内容であるのか想像するに余りある。…といった具合にすぐ揶揄してしまいたくなる一方、自己啓発を含めた「セラピー」をもっと真剣に取り合うべきだな、とは思う。たとえそのなかに、ひどい毒薬が混じっていたとしても。
そう思わせてくれたのは、レイモンド・カーヴァーだ。彼はおおくの短編小説において、なんらかの事情(アルコール依存、夫婦の軋轢、家族との死別)によって打ちのめされた人物の、ほんの少しの再生を描いている。「ささやかだけど、役にたつこと」においては温かいロールパンを食べることが、「薪割り」においては汗を流して薪を割ることが、登場人物にとってのセラピーとなる。細々とした日常生活は、問題を根本的に解決するものではないかもしれない。しかし、それはたしかに役にたつのだ。

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