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美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことか

美的性質や美的知覚について、最近出版されたマドレーヌ・ランサム[Madeleine Ransom]の論文がとてもよかったのでまとめておく。

1 前提:美的知覚

美的性質[aesthetic properties]とは、「美しい」「優美だ」「けばけばしい」「退屈だ」「バランスが取れている」など、われわれが芸術作品や自然の風景について語るときによく言及する性質のことだ。こういう性質を見てとったり聞いてとることを美的知覚[aesthetic perception]と呼び、「このモネの絵はバランスが取れていて美しい」みたいなことを言ったり書いたりすることを美的判断[aesthetic judgement]と呼ぶ。

フランク・シブリー[Frank Sibley]の影響下において、分析美学では美的性質に関してふつうふたつのことを前提する。

第一に、対象が美的性質を持つのは、一連の非美的性質を持つおかげである。例えば、この絵が「優美である」のは、「真ん中あたりに細い曲線が描かれている」おかげである、みたいなことだ。後者の、それ自体としては美的ではない性質たちが、いい感じにまとまることで絵を優美にしている、というわけだ。

第二に、しかし、美的性質は推論されるのではなく知覚されるものである。「真ん中あたりに細い曲線が描かれている」という情報を知らされて、「なるほど、じゃあその絵はきっと優美なんだな」と推論することはできない。「真ん中あたりに細い曲線が描かれている」けど「優美ではない」可能性がいくらでもあるからだ。ある美的性質が実際に帰属できるかどうかは、ディテールも含めて実際に見てみないことにはどうにも分からない。美的性質は、とどのつまり見てとられたり聞いてとられる(知覚される)ものであって、頭で考えてどうこう推論できるようなものではない、とされる。

美的性質と、知覚的であるというその本性に関しては、ひろく受け入れられた前提となっている。しかし、「優美さを見てとる」といった事態が正確に言ってどういう事態なのかは明らかではない。「赤いことを見てとる」「四角いことを見てとる」といった低次性質が知覚されていることは明らかだ。これに対し、美的性質の"知覚"は、なんだかんだ知覚ではなくて推論ではないかという懸念がつきまとう。知覚なのだとしても、一種の高次性質の知覚として説明されることになりそうだ。これは、一筋縄じゃいかない問題だ。

細かい前提についてはシブリー「美的概念」を読んでもらったほうが早い。また、美的知覚の話は源河 (2017)の第6章が詳しい。

2 問題の所在:美的知覚には訓練が必要?

美的性質や美的知覚についてはいろいろと語りがいがあるが、ランサムはちょっと変わったパズルからこのトピックに入っていく。

Dorsch (2013)は美的知覚について、次のような懸念を示している。Walton (1970)も論じていたように、美的知覚には訓練が必要な場合がある。たいていの人ははじめてキュビスムの絵を前にしたら戸惑うだけで、どう見ればいいのかさっぱり分からないだろう。ほかのキュビスム作品をたくさん見たり、キュビスムに関する背景情報を仕入れることではじめて、様式としてのポイントが理解でき、適切に美しさやバランスや奇抜さを知覚でき、判断できるようになる。といった感じで、訓練によってはじめて、ある種の美的性質が見てとれるようになるケースがあることについては、直観的にもっともだろう。

問題は、このような訓練の必要性と、〈美的性質とはあくまで知覚されるものだ〉という前節での前提が、どうも矛盾しているように思われる、という点だ。上のキュビスムの例にもある通り、訓練といえばその一部は座学であり、典型的には美術史的事実を知識として仕入れることを指す。しかじかの文脈において、ピカソとブラックがこういう意図でキュビスムをはじめた、みたいな情報を、聞かされたり読んだりして知識を形成する、というわけだ。しかし、そういった知識を動員して、「なるほど、だからこの作品は優美なのか」と判断することは、もはや知覚ではなくて推論しているように思われる。美的知覚が知覚であることと、それがときおり訓練を要することは、折り合いがつかないように思われるのだ。

パズルはさらに続く。これもまた直観的にもっともだと思われる事実だが、訓練のいらない美的知覚もある。あるファッションを見ておしゃれだと感じたり、あるでかい山を見て立派だと感じるのに、そのファッションやその山についてなんらかの背景知識を仕入れる必要はない。傾向的には、芸術作品を見る場面では背景知識が求められることが多く、日常的なものや自然物を見る場面では背景知識が求められることは少ない。美的知覚のための訓練は必要な場合と不要な場合があるのだ。なぜここに非対称性があるのか、というのがパズルの第二段階にあたる。

ということで、これら「訓練のパズル」になんらかの説明を与えることがランサムの課題となる。ランサムはまず、「認知的浸透」に訴える既存の説明が、このパズルを十分に解消していないと論じている。

3 「認知的浸透」説

認知的浸透[cognitive permeation](認知的侵入)とは、次のような考え方だ。われわれの知覚経験が持つ内容は、信念や欲求といった非知覚的・認知的状態によって、変化する。噛み砕けば、なにを知っていたり信じているかが、どう見えたり聞こえたりするかを左右する、という仮説だ。

美術史に関する知識が、認知的浸透によって美的知覚を左右する、という説明はよく見られる。とりわけ、Walton (1970)のアイデアを認知的浸透から整理し直したStokes (2014)が有名だ。

ウォルトンのカテゴリー論をざっと要約すると、次のような考えだ。

1. われわれは作品を見るとき、なんらかのカテゴリーを踏まえて/のもとで/において作品を見ることがある。
2. 踏まえるカテゴリー次第で、ある非美的性質が標準的/可変的/反標準的といった位置づけのどれを持つかが左右される。
3. このことは、作品のうちにどういう美的性質を知覚するかを左右する。

ストークスはこのことを、①「この絵はモネによる印象派の絵画だ」といったカテゴリーに関する知識を得て、②知識が美的知覚をガイドする、というモデルで説明する。すなわち認知的浸透だ。知識によって、どこにどう注目すればいいのかが分かり、どれがモネによる印象派の絵画なのか見てとれるようになり、その美的性質も見てとれるようになる、というわけだ。

ところで、テキトーなカテゴリーを踏まえてテキトーな美的性質を見てとってもダメだ。ウォルトンのカテゴリー論は次のように続く。

4. 作品が実際に持つ美的性質は、踏まえるべき「正しいカテゴリー」を踏まえて知覚される美的性質である。

これは、作品が実際に持つ美的性質を規定する、規範的テーゼとなっている。踏まえるべき「正しいカテゴリー」に関する考慮事項としては、芸術家の意図や社会的文脈などが挙げられる。認知的浸透のモデルでも、こういった考慮事項をちゃんと考慮に入れ、「正しいカテゴリー」をちゃんと踏まえていれば、作品が実際に持っている美的性質を正しく知覚できる、というふうに説明されていく。

実際、ここでは説明が二段階になっていることがポイントだ。第一に、ちゃんとした知識を持っていれば、作品をちゃんと「正しいカテゴリー」に分類できるようになる。あらかじめキュビスムや印象派がどういうものか教えてもらえば、《アヴィニョンの娘たち》を印象派ではなくキュビスムにちゃんと分類できる。第二に、ちゃんとした知識を持っていれば、そうやって分類した上で、ちゃんと作品が実際に持っている美的性質を見てとれる。キュビスムとはそういうものだと知っているので、《アヴィニョンの娘たち》を前にしても下品でおぞましいと感じることはない。第一にカテゴリー知覚のレベルがあり、第二に美的性質知覚のレベルがあるのだ。

4 「認知的浸透」説への懸念

ランサムは、この認知的浸透のモデルでは、美的知覚と訓練のパズルを十分に解消できないと主張する。

第一の反論として、認知的浸透がなされるには、なんにせよ浸透していく知識を持っていることが必要条件となるが、正しいカテゴリーにおいて知覚する上で、関連する美術史的知識を持っていることは必要ではない。このことはWalton (1970)によっても明言されている。

そもそもウォルトンは、外的な事実によることなく、知覚だけで判別可能なカテゴリーへとあらかじめ議論を限定している。この辺は話が細かくなりすぎるので、Laetz (2010)なんかをあたってほしい。

知識なしでもちゃんと分類できる場合がある、というのは本当か。ランサムは、経験的な証拠を挙げている。機械学習のニューラルネットワークは、データとラベルと知覚的特徴だけに基づいて、芸術ジャンルやスタイルを学習できる。AIは知識を持っているわけではないが、学習用のサンプルをたくさん与えてやれば、知覚的な手がかりだけで作品を分類する能力を示すのだ。また、ラット、鳥、サル、魚などの動物も、ブルースとクラシックを区別できる、という研究結果がある。これらのことが人間に対しても当てはまるとしたら、われわれはカテゴリーの知覚に関して、知識の所有を必要条件とすべきではない。

[注] もちろん、この反論は、認知的浸透の擁護者が〈あらゆる芸術分類は、知識のおかげでできている〉と主張していない限り、的を射た反論にはならない。実際には、〈芸術分類が、知識のおかげでできるようになる場合もある〉という穏当な主張だろうから、ランサムの批判は藁人形叩きになってしまっている。この節の最後まで読むと、ランサムは背景知識のいらない美的知覚が認知的浸透説にとって埒外であることには気づいているようだ。「だとしても、こういう現象に対して説明は必要」ということで、自説のほうが包括的であることをアピールしている。

第二の反論として、正しいカテゴリーを知覚できるようになった先で、なぜ正しい美的性質を知覚できるようになるのか、認知的浸透説はほとんど説明してくれない。正しいカテゴリーさえ踏まえられれば、美的性質は非美的性質およびその位置づけに付随(スーパーヴィーン)するので、自ずと知覚される、というのがおおかたの説明だが、ランサムによればこれは不十分である。

というのもランサムによれば、カテゴリーとしては踏まえるべきものを踏まえているのに、美的知覚を誤るケースが存在するからだ。ある映画をちゃんとSFとして見ているふたりがいて、一方が「SFとしてすばらしい」と述べ、他方が「SFとしてつまらん」と述べることはなんら珍しくない。なぜこのような意見対立が起こるのかは、〈正しいカテゴリーを踏まえる〉より先のことを説明してくれない認知的浸透説では分からない。

最後に、なぜ訓練(この場合は知識を仕入れること)が必要だったり不要だったりするのかという非対称性の問題についても、認知的浸透説はなにも教えてくれない。

5 「知覚学習」説

ランサムによる代案は、ウォルトンが述べていることを最大限活かしつつ、Goldstone (1998)の「知覚学習」に訴えるものだ。

知覚学習[perceptual learning]とは、次のような考え方だ。ある刺激に繰り返しさらされることで、知覚システムは構造的・機能的に変化し、その結果として知覚経験も変化する。認知的浸透が、手元にある知識によって、目下の知覚が歪むというモデルだったのに対し、知覚学習は刺激の反復と時間の経過によって、知覚システム自体が変容していくというモデルになっている。

訓練によって作品のカテゴリーを知覚できるようになっていくのは、注意の重み付け[attentional weighting]刺激の刷り込み[stimulus imprinting]地理的刷り込み[topographical imprinting]によるものだ。一つ目は、あるカテゴリーのメンバーである上で、どの特徴や特徴パラメータに注目し、どれは無視してよいのかだんだんと分かってくること。二つ目は、そもそもどれが関与的な特徴ないし特徴パラメータなのか、検出できるようになってくること。三つ目は、特徴だけでなく、特徴間の(とりわけ空間的)関係が分かってくることを指す。

これらを経て、知覚者は高次性質(この場合はしかじかのカテゴリーに属すること)を追跡するためにデザインされた特徴検出器の重みづけられたネットワークを獲得する。要はプロトタイプのことだ。これにどれだけ沿っているかを基準として、知覚は事物を分類する。

認知的浸透と異なるのは、このようなプロトタイプを得て対象を分類するプロセスにとって、美術史的知識は必要ない、という点だ。座学は最終的に踏まえるべきポイントを教えてくれることで、プロトタイプの形成を早めてくれる役割があるが、原理上はなくても差し支えないものだ。重要なのは、繰り返し事例にふれることで重み付けられた注意を獲得することであって、知識はありゃいいわけでもないし、なきゃだめなわけでもない。

[注] こちらの論文では出てこない主張だが、Ransom (2020)によればこのようにしてプロトタイプが形成されるのは端的に「キュビスム」「絵画」のような日常的カテゴリーであり、ウォルトンが変に限定した「知覚的に区別可能なカテゴリー」(「キュビスム風」とか「絵画風」)ではない。これは結構うれしいポイントだと思う。

さて、知覚学習によってカテゴリーを知覚できるようになることは分かったが、ここから美的性質の知覚にはどう橋渡しをするのか。ランサムはReber et al. (2004)による仮説を取り上げる。曰く、知覚処理が流暢[fluent]になされる場合には正の感情が生じ、そうでない場合には負の感情が生じ、これは美しさや醜さといった美的性質の感覚にほかならない

例えば、左右対称性は、美しいものの典型としてしばしば挙げられる。これに関連して、人は左右対称のものをより好む、という経験的研究がある。ランサムによれば、対称的な刺激には冗長さが含まれているので、処理が容易なのだ。処理が流暢なものほど正の感情を生じさせ、要は美しいのだと解釈される。

しっかり刷り込みを経ている場合、よりプロトタイプに近い、標準的な特徴の多い顔、家具、絵画、カラーパッチ、音楽、犬、時計、鳥ほどより好まれる、という経験的研究もある。変な犬より、犬っぽい犬のほうが好意的な反応を引き起こすのだ。

このように、少なくとも「美しい」「醜い」という美的性質に関しては、知覚処理の流暢さ(どれだけ容易に処理できるか)からその発生を説明できそうだ。その他の美的性質への拡張についてもいくつか簡単にスケッチしているが、ここでは割愛しよう。ランサムも認めるように、非知覚的・認知的感情が知覚処理にからむケースがあることまでは、否定しなくてよさそうだ。

ところで、ちゃんと正しいカテゴリーを踏まえられたとしても、ちゃんと美的知覚ができるとは限らない、という問題があった。

これは知覚学習において利用してきたサンプルが偏っていた、ということから説明できる。青の時代の作品ばかり見て「ピカソ作品」のプロトタイプを形成してきた人は、バラ色の時代の作品を見て「ピカソ作品のわりに派手だな」と誤って知覚・判断してしまうかもしれない。この人は、「ピカソ作品」だということを正しく分類できても、そもそも「ピカソ作品」に関して偏っているので、美的性質に関しても錯覚してしまうのだ。

ランサムは最後に、あるカテゴリーに関して適切な専門性[expertise]を獲得していることを、ただ分類できるだけでなく、所有しているプロトタイプが母集団の平均にちゃんと近似している、という要件を出している。例えば以下はそうなっていない例だ。北米の美人コンテストの審査員は、誰が女性であるのか適切に分類できても、地元に白人ばかりいることから「女性的な美しさ」が実質「白人女性的な美しさ」に偏っている可能性がある。審査員たちのプロトタイプは、平均的な「女性」に近似していないため、「この人は女性として美しい」と知覚するとしても、それは錯覚かもしれないのだ。

6 訓練のパズルを解く

最初に提示された訓練パズルはこうだった。

① 美的知覚が知覚であることと、ときおりそれに訓練が必要であることは、どうすれば両立させられるのか。
② なぜ、訓練が必要だったり不要だったりすることがあるのか。

①については、美的知覚が知覚学習のおかげでできている、という事実から、たくさんの事例に触れたり情報を仕入れるのも、知覚学習の一環であるという説明ができる。ともかくそれは知覚なので、認知的浸透モデルにつきまとう「もうそれ実は推論では?」という懸念からは逃れられる。

②については、いくつかの答えを与えられる。第一に、訓練がいらないっぽいケースは、実はもう訓練済みのケースかもしれない。芸術作品とは異なり、犬や山とは触れる機会が多いので、とっくにプロトタイプを形成しているだけかもしれない。第二に、実際に訓練せずとも流暢に処理されるような特徴がたしかにあるのかもしれない。前述した「左右対称なので美しい」みたいなケースがこれに相当する。左右対称性はそもそも知覚処理しやすい特徴なので、その美しさの知覚は訓練によってなんらかプロトタイプを形成することを必要としないのだ。第三に、訓練が必要だったり不要だったりするとは言っているが、上で見たように美的知覚が誤っている可能性はいくらでもある。そもそもカテゴリーを誤認していたり、そうでなくてもカテゴリーのプロトタイプが偏っているかもしれない。なので、こっちのケースは訓練がいる、あっちはいらない、みたいな直観をそのまま受け取るわけにもいかない。

✂ コメント

結構細かく書いたので長くなってしまったが、要は〈美的知覚に訓練が役立つ〉という事実を、「知覚学習」と「知覚処理の流暢さ」というふたつのアイテムから説明した論文だ。

ランサムは2020年のJAAC「芸術のカテゴリー特集」にも書いており、その整理はウォルトン本人にもおおむね公認されている。つまり、ウォルトン解釈としては知覚学習説のほうがより正確である。美的性質が知覚処理にとって流暢かどうか次第で出てくる、というのは説明として狭いのでは、と思わなくはないが、そういう場合もあるというのはまぁ説得的だ。非対称性の問題に対しても、こちらのほうがうまく対処できていると思う。

しかしこう、昨日の松永さんのエントリーじゃないが、認知的浸透派も知覚学習派も、そういったケースがあるという以上の主張にはなっていないように読める。知識を仕入れたことがカテゴリーや美的性質の知覚を左右するケースと、さらされ続けて学習されたプロトタイプによってそれらが左右されるケースは、どちらも等しくありえそうであり、どちらも他方を完全に還元できていないように思われるのだ。実は両立可能な説明であって、実質的には対立していないのではないか、と思わされる。

きっと、レディメイドや贋作の美的性質(というのがあるとして)については、知覚学習ではうまく説明できず、認知的浸透モデルに訴える必要があるのだろう。ウォルトンの「知覚的に区別可能なカテゴリー」という制限は外せるのか(外すべきなのか)は、私の博論第2章の主な問いになりそうなので、最近はLaetzまわりを読み直している。わりと考えがまとまってきたので、どこかで40分ぐらい喋りたいな。

ところで、ウォルトンのカテゴリー論もそうだが、〈美的性質は推論されるのではなく知覚されるものである〉というシブリーの前提をあくまで維持したまま文脈の役割を論じていくのは、縛りプレイみがあって面白い。最初からそういう縛りを設けず、〈芸術にとっては文脈が大事なんですよ〉という話をするのはあまりにも容易なので。

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