見出し画像

センター現代文で学ぶ誤読解力

はじめに

今ではかれこれ3年ほど現代文を教えているが、受験生時代はほんとうに現代文ができなかった。それなりに資金と時間を投資して学んだはずなのに、この科目がなんの能力を問うものなのかすらよく分からずじまいだった。とどのつまり「読んで理解して答える」というだけの試験ができない自分は、知的に基本的ななにかが損なわれているのではないかと勘ぐったほどだ。

私がまともに読解を学んだのは学部の後半で、なんなら修士に上がってからだ。基本的に文章というのは、精読多読の上でトライアルアンドエラーを積み重ねて少しずつ読めるようになるしかない。これを高校の三年間で身につけるには相当のセンスと努力が求められるだろうし、現代文が得意な高校生はほんとうにすごいと思う。文章をちゃんと読める、という能力はもっともかけがえのない能力のひとつであり、それさえあればどこへ行ってもある程度はなんとかなるものだ。誇っていい。

ともかく、曲がりなりにも人文系の博士課程に在籍し、現代文講師を務めるまでには文章が読めるようになったので、その最低限のノウハウを書いておきたい。さりとて私は専任の塾講師ではないし、以下の話は論説文(かつ形式としては選択肢問題)に限定されているため、権威的でも汎用的でもない。そもそも、以下で見る問題文に関する私の説明に深刻な間違いが含まれていないとも限らない。私には、それを最小限かつ無害な範囲内に収めるよう努力するしかない。私があなたなら林修の書いたものを優先的に読む気になるはずだ。

ということで、話を論説文かつセンター形式の選択肢問題に限定して進めよう。ケーススタディとして、2014年度の斎藤希史『漢文脈と近代日本』を取り上げる。問題は速報ページで見れるので、問いたことのない方はぜひ自力で問いてみてから読んで欲しい。ちなみに私が現役で受けた年の問題だ。本稿は復讐劇でもある。

私が考えている現代文のコアは、一言で言えば「誤読を知る」ことだ。現代文は往々にして、いかに正しい選択肢へとたどり着くかで考えられがちだが、より重要なのは、間違った選択肢がなにゆえに間違っているのかを理解することにほかならない。間違った選択肢というのは、いわば文章に対する「誤読」である。われわれは、その選択肢がいかに文章を誤読しているのか突き詰めて考える必要がある。ことによると読解力よりも重要なのが、誤読解力になるわけだ(念のため、誤読・解力であって、誤・読解力ではない)。時間に追われた受験生は、しばしば正解したらすぐ次へ行ってしまいがちだが、それではなかなか訓練にならない。実践的には、与えられているあらゆる選択肢のどこがどう間違っているのか明確に述べられるレベルまで理解した上で、次の問題に進むべきなのだ。理想的には、ではなく実践的にそうすべきだ。

そして、この能力はその後の人生において読み書きに取り組む上でも極めて重要になってくる。インターネットで人様の書いたものを読んで、とんちんかんなコメントをつける皆々様は往々にしてこの能力を欠いている(そうでなければ、とにかく悪意がすごい)。むしろ、大人こそ改めて現代文を勉強すべきなのだ。

なにより、ちゃんと体系的に取り組む受験現代文はたのしい。メモリーに保存した範囲内でやりくりする暗記科目とは異なり、現代文はちゃんと特定のスキルを測っている。スキルは運用を通して磨くものであり、この点で現代文は数学と似ている。解けると気分がいいし、間違えると悔しい。英単語や人名を答えるようなテストでは、なかなかこういうたのしさは味わえない。

さて、では間違った選択肢はなにゆえに間違っているのか。誤読にはいくつかのパターンがある。重要なのは、これらの誤読パターンを理解することだ。

ともあれ、文章を読んでみよう。

2014年度センター現代文の概要

この年の論説文は、漢文学習が江戸時代に日本に広まった経緯と帰結に関する文章だ。とりわけ、漢文・漢学が「公的に認知された素養」「知的世界への入り口」となるとともに、これを経由して「ある特定の思考や感覚の型が形成されていった」ことを示している。/具体的には、古来中国において「高度なリテラシー(読み書き能力)によって社会に地位を占める階層」であるところの士大夫階級が、中国古典文(『論語』や『詩経』)から思考や感覚の型を継承してきたのと同様に、漢文を読む士族階級もこれらを吸収していったという話だ。近世幕藩体制下の士族は、ポジション的に士大夫と似ており、同化しやすかった。/一方で、同時に武士である士族らは、武への価値づけを転換する(文に対立するものではなく、忠の現れとみなす)ことで、文武両道を成り立たせていく。やがて「学問吟味」「素読吟味」というかたちで漢文学習が試験化され、学生たちは「道理と天下を語ることば」としての漢文を吸収していくことになる。

一言で言えば、「漢文学習が広まるとともに、中国古来の知識人的な思想も広まった」という話だ。(もちろん、単純化には気をつけるべきだが。)

2013年度の悪名高き小林秀雄「鐔」ほどではないが、それなりに読みにくい文章だろう。構成としても、「日本の士族階級の話→中国の士大夫階級の話→日本の士族階級の話」と時代地域が前後しており、士大夫と士族も字面が似ていて日本の話か中国の話か分からんくなってくる。武への価値づけを転換する、という話はおもしろいが、ぱっと読んだだけではなかなかとっつきにくいし、言っていることは分かってもなぜそうなるのか納得しにくいかもしれない。世界史選択かつ大の古文漢文嫌いであった高校生の私にとっても、しんどい文章であった。

気を取り直して問題を見ていこう。以下、段落番号を[]で表記する。

話題を取り違える、勝手に連想する

(問2) 傍線部A「もう少し広く考えてみましょう。」とあるが、それはなぜか。

序盤の展開部に関する問題。ここで見るからに重要なのは、なにに関して「もう少し広く」考えたいのか、である。すなわち、筆者がこれから語ろうとしている話題を正確に掴む、というきわめて基本的だが重要な能力が問われている。

直前までの段落を読むと、[1]~[3]近世日本において漢学が広まった、[4]同時に「ある特定の思考や感覚の型が形成されていった」、しかしそれというのは「儒教道徳が漢文学習によって身についた」という程度の話ではない、[5]「もう少し広く考えみましょう」、という流れなっている。とくに、[4]の中身が重要である。筆者は、「ある特定の型が〜〜ことにも、注意を向ける必要があります。」としており、ここで話題を広げていることが分かる。実際、ここで出てくる「ある特定の思考や感覚の型」の内実は[4]時点でまったく分かっておらず、おまけに「儒教道徳が漢文学習によって身についた」という程度の話ではないことが、いわば踏み台的に触れられている。ということで、読者としては「ある特定の思考や感覚の型が形成されていった、とはどういうことだろうか。気になる!」という状態になっていて然るべきである。ここに至って「もう少し広く考えみましょう」と言うのであれば、そうすることでまさにその内実が分かってくる、という予告に間違いない。筆者はこれから「ある特定の思考や感覚の型が形成されていった、とはどういうことか」を説明していくつもりなのだ。

すると、話題を誤読しているということで、選択肢①「近世後期の日本において漢籍が知的世界の基礎になった根拠」、②「近世後期の日本において漢学が素養として公的に認知された理由」、⑤「近世後期の日本において漢学の専門家以外にも漢文学習が広まった背景」は切れる。日本における漢文学習の普及については、[1]~[3]ですでに終わった話題だ。そもそも「思考や感覚の型が形成」というのに触れている選択肢が④しかないので、[4]をちゃんと読み込んでおけば、答えは自ずと④になる。

選択肢③「近世後期の日本において漢文学習により知的世界が多様化した前提」は、一瞬考えてしまうかもしれない。士大夫的な思想が入ってきたのであれば、ことによると日本の知的世界は多様化するかもしれない。しかし、これは危うい連想であって、文章中にはそんなことは示唆されていない。そもそも、士大夫的な思想が広まったのであれば、知的世界は多様性が減ることだってありうるだろう。どちらにせよ、それは連想に過ぎない。読解問題は連想で問いてはならず、多様性の問題に関してはっきり触れた箇所がないのであればそんな話はしていないと考えるべきだ。筆者が「犬はかわいい」と書いているからといって、「この人は犬が飼いたいのだな」「犬を買うべきだということか」「猫はかわいくないというのか!」などと曲解してはならない。


因果関係や力点を見逃す、説明不足

話の因果関係や力点を誤読している、という切り方もある。結局のところ、「ある特定の思考や感覚の型が形成されていった、とはどういうことか」。それは、中国の士大夫らが儒家やら道家を学ぶことで、士人(農民や商人ではなく、知の世界の住人)としての思想や感覚を継承してきたように、「日本の近世社会における漢文の普及もまた」こういった「士人的エトスもしくは士人意識〜〜への志向を用意し」、士族階級によって吸収されてきたことを指す。

選択肢①「中国古典文に見られる思想と文学の共通点を考慮に入れることで〜〜」は、たしかに思想に相当する『論語』と文学に相当する『詩経』の共通点として、「「学ぶ」階層のための」テキストであり「士人のもの」であることが触れられているため紛らわしい。問題は、これを考慮に入れることで上述の不明点が明らかになる、という力点の置き方ではない、という点だ。たしかにその話もさっきしていたが、その話はここの話と直接つながるものではない、という誤読パターンを意識しなければならない。

①はそもそも後半が間違っているので、仮に、選択肢①の前半と、正解である選択肢④の後半を組み合わせた選択肢があったとしよう。

①+④ 中国に目を転じて時代をさかのぼり、中国古典文に見られる思想と文学の共通点を考慮に入れることで、近世後期の日本において漢文学習を通して思考や感覚の型が形成された過程が把握できるから。

一見それっぽい選択肢が出来上がるが、この仮の選択肢は、せいぜい説明不足である。すなわち、(1)中国古典文に見られる思想と文学には共通点がある、(2)それは士人的な思想がベースになっていることである、(3)中国の知識人であるところの士大夫階級は、古典文を学ぶことでこういった士人的思想を継承していった、(4)同様に日本の士族階級も、漢文を学ぶことでこういった思想や感覚の型を形成していった、という流れのうち、(2)(3)を飛ばして、(1)(4)だけに触れている。よって、「〜〜を考慮に入れることで」というつなぎの部分がしんどい。話の力点は共通点があることではなく、共通点の中身であり、かつそれを士大夫階級が学んできたという経緯にある。(もっとも、ほかによりよい選択肢がなければ、①+④はギリギリ正解になるかもしれないが。)

「犬と猫にはある共通点がある。それは人に飼われることだ。しかし、人に飼われる生き物は幸福なのだろうか。私には懐疑的だ」という文章を、「筆者は犬と猫のある共通点に関して懐疑的だ」とまとめるのは、やはり奇妙だし、せいぜい説明不足である。話の力点は犬と猫の「共通点」なのではなく、その中身であるところの「人に飼われること」であり、そちらに触れるべきであろう。

話の因果関係や力点に関して言えば、③「儒家だけでなく道家の思想も士大夫階級に受け入れられた状況を踏まえることで」もかなり的外れだ。道家の思想受け入れられたことに力点が置かれているわけではない。「道家の思想も〜〜受け入れられた」ことはたしかに事実であり、筆者も触れているが、その話はここの話につながらないのだ。


勝手な図式化、真逆のストーリー

(問3) 傍線部B「人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します」とあるが、中国では具体的にどのような展開があったのか。

ふわっとした比喩的な表現に関して、具体的にどういうことかを選ばせる定番問題だ。なにはともあれ、「人」とは中国の士大夫であり、「ことば」とは『論語』や『詩経』などの中国古典文であることを意識できれば、半分ぐらいは解けたも同然だろう。士大夫が古典を学び、それが科挙を通して制度的に維持されることで、士大夫的な思想が再生産されていくことを答えなければならない。

①は無為自然を説く道家と身分秩序を説く中国古典文に関してまったくいい加減な二項対立を設けているのがまずい。本文での触れられ方に関して言えば、道家と儒家はともに中国古典文にカテゴライズされ、いずれも士人的な思想ベースのテキストであるとされているので、相違点よりも共通点のほうに注目するべきだ。勝手に図式化してはいけない

③は「儒家の教えが社会規範として流布し」ということで道家を差し置いて儒家だけを取り出して力点を置いているのがまずい。

④は「中国古典文のリテラシーを獲得した人々が自由に自らの志や情を詩にするようになると〜〜」「民情を取り入れたものが出現し〜〜」ということで、詩や民情を因果関係の因においているのが的外れだ。科挙制度は士大夫階級を再生産するものとして触れられているので、「身分秩序が流動化」という説明もよく考えれば逆のことを言っており、おかしいことがわかる。

⑤は「士大夫が堅持していた書きことばの規範が大衆化し、人々を統治するシステム全体の変容につながっていった」というので、本文とまったく逆のストーリーを作り上げているので、かなりダメな選択肢だ。(これぐらいの誤読を堂々とできるのであれば逆に清々しいのだが。)


個人的に納得しやすいストーリーをでっちあげる

(問4) 傍線部C「刀は、武勇ではなく忠義の象徴となる」とあるが、それによって近世後期の武士はどういうことが可能になったのか。

本文のなかでもとっつきにくい箇所であり、難しい問題だろう。だからこそ、大きな教訓がある:あなたに納得できないからといって、あなたに納得できる範疇の話に違いない、と誤読してはならない。また、納得できないからといって読解できないわけではないはずなので、ひとまず読解を目指すべきだ

江戸の武士は刀を持っていた。もとより彼らは戦のプロフェッショナルで、士大夫のように学問に励むような階級ではない。そんな彼らは、漢文学習に参与する過程で、「刀は、武勇ではなく忠義の象徴」なのだと、価値づけを変容させていく必要があった。すなわち、文武両道ということで、「武=刀=バチバチ戦にも出るし、文=漢文を勉強して統治者になるぞ」というのでは自己矛盾的でしんどいので、「武=刀=忠義を誓っているし、文=漢文を勉強して統治者になるぞ」ということで、自己理解をすり替えていくのだ。[14]ではさらに、「そうした武に支えられてこその文であるという意識が生まれる」と言われている。

おそらくは背景知識として、階級社会とアイデンティティに関する最低限の理解が必要であり、近代とブルジョワジーに関する文章(これも頻出トピックだ)をいくらか読んだことのある読者ならスムーズに入ってきやすいだろう。そうでないといまいち納得できない話かもしれない。なんでそんな象徴のすり替えが可能なのか、なんのために必要なのか、ほんとうにそんなことが起きたのか。

しかし、受験現代文において重要なのは内容に納得することではなく、筆者がそう説明していることを理解し、それを踏まえて問題を解くことだ。実際、上述のシナリオを分かっていれば、④は選べるだろうし、③⑤はあっさり切れる。③「刀を持つことが本来意味していた忠義の精神」は間違ってるし、⑤「出世のための学問を重んじる風潮に流されず」もすっかりずれたことを言っている。②は、刀によって象徴されているもののなかに「武士に必須な忠義心」をこめるまでは正しいが、その手前で「漢文学習によって得られた吏僚としての資格」までこめているのがおかしい。これでは、「刀=武+文」になってしまう。刀が象徴しているのは武=忠義だけだ。

①は「理想とする中国の士大夫階級」が、別に理想としているとは書かれていないので間違いなのだが、それさえ除けば「士大夫階級の単なる模倣ではない、日本独自の文と武に関する理念を打ち出すことができるようになった。」というのはアリなように思われる。たしかに、中国の士大夫階級は基本的には武がなく文だけなので、文武両道は日本の士族階級ならではの理念に思われる。しかし、これはすでに危うい連想に踏み込んでいる。士大夫の単なる模倣ではなく、独自の理念を打ち出していこう、という目標が明示されていたわけではないし、文武両道の話の力点が「日本の士族階級ならではである」点に置かれていたわけでもない。文武両道によって日本の士族と中国の士大夫が区別されるというのはすっきりしており、ともすれば納得しやすいストーリーなのだが、納得しやすい話がただちに筆者のしている話とは限らない。もちろん、発展的になにかを論じていく上ではこういった視点が必要なのだが、それは読解力とは別の能力であり、そうやって引き出されたストーリーを筆者の主張として帰属させるのはかなりまずい。


譲歩を主張として読む、誇張して要約する

(問5) 傍線部D「漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあった」とあるが、それはどういうことか。本文全体の内容に照らしてもっとも適当なものを〜〜一つ選べ。

まずは、「道理と天下を背負ってしまう」ことの内実を踏まえなければならない。とくに天下が国家を指しており、これを背負うことが[18]「統治への意識」を指していることを捉えたい。少しややこしいのは、「単純に統治意識の一語ですませられないところがあるのは事実です」とある[19]だ。これは譲歩ないし留保であり、主張の本筋ではないことが意識できないと迷子になってしまうかもしない。筆者が「犬はかわいい。たしかにたまに噛みつかれることはある。それでも私は犬を飼いたい」と書いているときに、「筆者は犬を飼いたがっているが、噛みつかれるのが心配だ」と要約してはならない。譲歩は譲歩であって、そこに力点はない。

ともあれ、「統治の意識」に触れていない点で、②④は切れる。①「士人意識と同様のエリートとしての内面性を備えるようになった」はちょっとあやしいが、ここに「統治の意識」を読み込むのもやや無理があるだろう。それ以前に、①は「漢文を学ぶことを通して、幕府の教化政策を推進する者に求められる技能を会得する」というシナリオがおかしい。教化された上で教化する側にまわる、なんて話は出てこない。

⑤は的外れではないだろうが、「国家を統治するという役割を天命として引き受ける気になった」が強すぎる。漢学を通して、士族は統治者としての意識を養っていったわけだが、それを「天命として引き受ける」というのは誇張だ。並べてみると、③のほうが明らかに穏当かつ妥当なことを述べていることが分かるだろう。「犬はかわいい」と言っている人に対して、「犬のためなら死んでもいいんだな」と述べるのはひどい誤解だ。なんであれ、極端な要約をしているコメントに対しては、筆者がほんとうにそんなことを言っているのか確認することが必要だ。


文章の表現と構成に関する問6は省略しよう。この手の問題は、ここまで話題にしてきた読解力とはやや異なる能力(批評力とでもいうべきか)が問われ、やや異なるアプローチが求められる。


おしまい

誤読にはほかにもたくさんある。関連して、「詭弁」のWikiなんかが楽しいので見てもらうとよい。

もちろん、成績も読解力もすぐには上がらないので、トライアルアンドエラーでやっていくしかない。ともかく、エラーはエラーなのであって、それでなにがわるいと開き直りはじめたら人間おしまいだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?