はじめてガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んだのは2014年の春で、私は学部の1年生だった。駒場に行きそびれて日吉に来たサブカル男子の例にもれず、当時の私はハイリーにセンシティブで、まったくここには阿呆しかいないのかと気も狂わんばかりであった。あれほど鬱屈とした気持ちを抱えていなければ、メディアにこもってあれほど分厚い小説を読むことにもならなかっただろう。結果的にはラッキーだったわけだ。
スケールの大きいものに触れて個人サイズの悩みがかき消えることをAwe体験というが、学部生の私にとって『百年の孤独』を読むことはまさにAwe体験だった。「どうせみんな塵となって吹き飛ばされるのだ……」というやけくそとも悟りともつかない観念を得たことは、あのときあそこにいた私をたしかに救ってくれた。
『百年の孤独』よりすごい小説を、私は知らない。立派な小説も、面白い小説もいくらでもあるが、こんなに立派でかつ面白い小説にはなかなか出会えない。もともと海外文学は好き好んであれこれ読んでいたが、マルケスはそのどれとも全く違っていて、端的に言ってスペシャルだった。あれから素敵な小説にはいくつも出会えたが、『百年の孤独』は今に至るまで私にとってスペシャルな一冊である。マジックリアリズムを主題に卒論を書いたぐらいだ。
この小説について、ネタバレはあまり意味をなさない。語り手が次から次へとネタバレしていくからだ。アウレリャノ大佐はいずれ銃殺隊の前に立つと予告されたら、それはもう回避し難い宿命なのだ。このような文体も手伝って、物語はブーンと唸るような「どうしようもなさ」に彩られている。『百年の孤独』には、同じ名前を与えられた人物が山程出てくるが、彼らはみな同じ気性と運命を共有しており、誰もそれを変更することはできない。
「『百年の孤独』といえば、つい最近読み返したな」と思い、日記を見返したらぜんぜん最近ではなく、3年も前だった。以下、わりと良く書けたなと思うレビューを転載。
ようやく刊行された文庫版は、私がとやかく言うまでもなく飛ぶように売れるだろうが、個人的には抽象画っぽい表紙が抜群にカッコいいハードカバー版もおすすめだ。どうせ塵となって吹き飛ばされるにしても、ハードカバーのほうが多少は長持ちするだろう。
とはいえ、文庫版が出てくれたおかげで、この物語を留学先へと連れていきやすくなった。ありがたい。