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私の『百年の孤独』

はじめてガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んだのは2014年の春で、私は学部の1年生だった。駒場に行きそびれて日吉に来たサブカル男子の例にもれず、当時の私はハイリーにセンシティブで、まったくここには阿呆しかいないのかと気も狂わんばかりであった。あれほど鬱屈とした気持ちを抱えていなければ、メディアにこもってあれほど分厚い小説を読むことにもならなかっただろう。結果的にはラッキーだったわけだ。

スケールの大きいものに触れて個人サイズの悩みがかき消えることをAwe体験というが、学部生の私にとって『百年の孤独』を読むことはまさにAwe体験だった。「どうせみんな塵となって吹き飛ばされるのだ……」というやけくそとも悟りともつかない観念を得たことは、あのときあそこにいた私をたしかに救ってくれた。

『百年の孤独』よりすごい小説を、私は知らない。立派な小説も、面白い小説もいくらでもあるが、こんなに立派でかつ面白い小説にはなかなか出会えない。もともと海外文学は好き好んであれこれ読んでいたが、マルケスはそのどれとも全く違っていて、端的に言ってスペシャルだった。あれから素敵な小説にはいくつも出会えたが、『百年の孤独』は今に至るまで私にとってスペシャルな一冊である。マジックリアリズムを主題に卒論を書いたぐらいだ。

この小説について、ネタバレはあまり意味をなさない。語り手が次から次へとネタバレしていくからだ。アウレリャノ大佐はいずれ銃殺隊の前に立つと予告されたら、それはもう回避し難い宿命なのだ。このような文体も手伝って、物語はブーンと唸るような「どうしようもなさ」に彩られている。『百年の孤独』には、同じ名前を与えられた人物が山程出てくるが、彼らはみな同じ気性と運命を共有しており、誰もそれを変更することはできない。

「『百年の孤独』といえば、つい最近読み返したな」と思い、日記を見返したらぜんぜん最近ではなく、3年も前だった。以下、わりと良く書けたなと思うレビューを転載。

2021/06/17
数年ぶりに『百年の孤独』を紐解いているが、毎章ぶっ飛ぶほど面白くて恐れおののいている。エピソードとエピソードが適当に散らばっているように見えて、その配置はそれ以外考えられないような必然性でもって、強力なグルーヴを構成している。極端な話、1967年以前の文学論はまったく読む気にならないほど、この小説はとんでもない文学的達成をしている。
学部生のころには表面的にしか読めていなかったが、いまちょうどアウレリャノが左翼テロリストに転身する章を読んでいて、胸が引き裂かれている。引きこもりの科学オタクで、暴力を嫌う人道主義者である彼が、一連の不幸と理不尽を経験し、保守党との戦争に飛び込んでいく様はあまりにも悲しい。とりわけ、その宿命的破滅は小説の冒頭からしつこいほど予告されている。アウレリャノはただひたすらに優しい人物であり、優しいからこそテロリズム以外の選択肢を奪われ、優しいからこそ破滅に取り憑かれる。この転身劇を、まったく関係のなさそうなエピソードから、20ページそこらの一章分で(これ以上ないほど説得的なものとして)書き上げる手腕は人間業じゃない。

2021/06/18
前日にアウレリャノの宿命的破滅とか書いたが、直後の章を読んだら思いっきりプロットツイストがあって、踊りに踊らされた。たったの数年で、私は『百年の孤独』の中身をすっかり忘れている。小説にせよ映画にせよ、フィクションのストーリーを忘れることに関しては私は師範レベルだ。忘れるおかげで、またいちから楽しめる。

2021/07/02
『百年の孤独』を読み終えた。今回はペタペタと付箋を貼りながら読んだのだが、マジカルなシーンが思っていたほど多くはない。美女が飛んでいったり、村全体が不眠症に包まれたり、愛人とセックスして家畜が大繁殖するなど、そういった超自然的な出来事も目を引くが、それを淡々と語る語り手がときおり前景化してくるという、小説の遠近感が印象的だった。とくに、この語り手は人物たちが孤独のなかで一生を終える場面で文体にフックを入れており、憐憫とも嘲りともつかない比喩のなかでその死を語っている。終盤は主要人物たちの死が重なるので、文体もその調子を強めていく。アウレリャノ・ブエンディア大佐の死はこうだ。

「栗の木のほうへ行くのをやめ、アウレリャノ・ブエンディア大佐も表へ出て、行列を見ている野次馬の群れに加わった。像の首にまたがった金色の衣装の女が目についた。悲しげな駱駝が見えた。オランダ娘のなりをして、スプーンで鍋をたたいて拍子を取っている熊も見た。行列のいちばん後ろで軽業をやっている道化が目にはいったが、何もかも通りすぎて、明るい日差しのなかの街路と、羽蟻だらけの空気と、崖下をのぞいているように心細げな野次馬の四、五人だけが残ったとき、大佐はふたたびおのれの惨めな孤独と顔をつき合わせることになった。サーカスのことを考えながら大佐は栗の木のところへ行った。そして小便をしながら、なおもサーカスのことを考えようとしたが、もはやその記憶の痕跡すらなかった。ひよこのように首をうなだれ、額を栗の木の幹にあずけて、大佐はぴくりともしなくなった。家族がそのことを知ったのは翌日だった。朝の十一時に、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダがごみ捨てに中庭へ出て、禿鷹がさかんに舞い下りてくるのに気づいたのだ。」(312)

伝説的なアナーキストが小便の最中に息絶え、その死体を禿鷲に貪り食われる。死は凄惨だが滑稽だ。彼の死に際し、ほとんど唯一(間接的だが)関与したのがサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダという、この物語でもひときわ地味な未亡人だというのも印象的だ。彼女の一言で、彼は表に出てサーカスを目にする。言うまでもなく、サーカスは波乱と虚飾に満ちた彼の一生のアナロジーであり、「何もかも通りすぎ」たあとの静けさのなかで、彼はその一生を終える。その遺体を発見するのもサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダだ。他の誰であっても、その役割は務まらなかっただろう。まったくこの小説は、しかるべき場所にしかるべきものが配置されている。

ようやく刊行された文庫版は、私がとやかく言うまでもなく飛ぶように売れるだろうが、個人的には抽象画っぽい表紙が抜群にカッコいいハードカバー版もおすすめだ。どうせ塵となって吹き飛ばされるにしても、ハードカバーのほうが多少は長持ちするだろう。

とはいえ、文庫版が出てくれたおかげで、この物語を留学先へと連れていきやすくなった。ありがたい。

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