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コーヒーを飲むこと、コーヒーについて説明すること

1.コーヒーを飲むこと

コーヒーとの付き合いは長い。

中学生の時分に、母と行ったケーキバイキングで飲んだのが、はじめてのコーヒー体験だったと記憶しているが、あれから十年余が経った今日に至るまで、コーヒーは私にとって生活の一部である。

サードウェーブが大流行りしていた2014〜2015年ごろは、ちょうど学部の1〜2年で、それはそれはコーヒーばかり飲んでいた。当時の私は、バンド、映画、コーヒー、カレーと、すっかり仕上がったサブカルだった。

某有名ロースタリーでアルバイトをしていたが、二ヶ月でクビになった話は、そんなには面白くないので脇に置こう。

コーヒーの楽しみ方は人それぞれだ。私は喫茶店やコーヒースタンドもそれなりに巡ったが、もっぱらロースタリーで豆を買って、自分で淹れるタイプのコーヒー好きだった。ポット、サーバー、ミルに、V60、フレンチプレス、エアロプレスは一通り揃えた(つい二年前にはアメリカンプレスも手に入れた)。日吉の中庭で豆を挽き、生協のお湯でコーヒーを淹れているイキリに見覚えがあるとすれば、(少なくともそのうちのひとりは)私だ。

ひとつだけいまだに腑に落ちないことがあるとすれば、当時の私はほんとうに好き好んでコーヒーを飲んでいたのか、ということだ。いくつかの理由から、これは疑わしい。

もちろん美味しいコーヒーは美味しい。チーズケーキと一緒に濃い目のブラックをすすることは、摂取可能な組み合わせとしてほとんど最良のコンボだ。しかし、サードウェーブの喧伝していた意識高い系浅煎りコーヒーだと、そうもいかない。

当時、とりわけよく飲んでいたのはエチオピアのイルガチェフェだ。レモンまるかじり並に酸っぱいケニアも、せっせと飲んでいた。コーヒーの概念を覆すかのような酸っぱさのなかに、フローラルな薫香とナッティーなコクをもとめて一生懸命だった。

私は幼い頃から慢性鼻炎で、匂いがよく分からない。コーヒーの概念を覆す必要なんてなかったのだ。おとなしくブラジルかマンデリンでも飲んでいればよかった。

明らかに私は、長髪にビーニーをかぶり、丸メガネに髭を伸ばし、中目黒あたりでコーヒースタンドか古着屋かあるいはその両方を経営し、休日は仲間たちとスケボをして、夏は短パンを履くようなライフスタイルに憧れていた。このうち、私が手に入れたものは丸メガネだけである。おちょくっているようにしか聞こえないのであれば、それは私が嫉妬に狂っているからだ。

ともかく、酸っぺぇコーヒーは私にとってイケてるライフスタイルの一部であると思われたのだ。ある段階でメタ視点に立てたのは、私にとって幸運であった。


2.コーヒーについて説明すること

物知り顔で酸っぱいコーヒーをすすっていたのは、我が人生を代表する自己欺瞞のひとつだが、もう十分反省したのでいいだろう。ぼちぼち話を変えたい。

いま私が気になっているのは、そもそも特定のコーヒーの味について、「スモーキーな」「アプリコットを思わせる」「はちみつのような」といった形容詞を適用するというのはどういうことか、という美的な問題だ。「最強のコモドドラゴンを想起させる、しっかりとした深味のある味わい」というのが私のお気に入りだが、ここまで極端でないにせよ、コーヒーの味をなんらかのもので例えて説明するというのはカッピングの基本であり、専門家素人を問わず、コーヒー飲みなら誰しもが携わったことのある言語活動だろう。

最近、「美的なもの[the aesthetic]」をめぐるフランク・シブリーやモンロー・ビアズリーの書き物を読んでいて、改めてこの美学上の大問題に関心を持ち始めたのだが、ことによると、コーヒーの解釈と評価は、私にとってもっとも身近な美的実践のひとつだったのかもしれない。

例えば、言わずと知れた恵比寿の有名店・猿田彦珈琲さんのオンラインショップでは、ケニアのキアンドゥを「ピンクグレープフルーツのような柑橘の爽やかさとピーチティーの風味。シュガーケーンを思わせる甘さが余韻に広がります」と評し、コロンビアのゲイシャについては「繊細なジャスミンと力強いパフュームの印象。ラフランスや赤ぶどうのような鮮やかな酸味と極上の舌触り」と評している。例文の枚挙には暇がないが、こういった言語実践における想像力には驚嘆するばかりだ。

米国スペシャリティーコーヒー協会がひとつの「共通言語」として作成しているチャートは、まさしくコーヒー版の「美的概念」である。そのなかには、「シナモンのような」「ワインのような」といった定番の喩えもあれば、「紙のような」「動物的な」といった変わり種もある。2016年の改定で「薬っぽい」に修正されたが、かつては「リオデジャネイロっぽい[Rioy]」という喩えまであったそうだ。

シブリーは、「繊細な」「ダイナミックな」といった美的用語の適用が条件的には決定されない、すなわち、一定の非美的性質が揃ったとしても問題なく「繊細な」「ダイナミックな」と言えるとは限らないことを強調したのに対し、当のチャートは趣きが異なる。共通言語としての用語集は、ある種の間主観性を持つだけでなく、特定の味や香りに対して、特定の用語を適用するよう規範的に要請しているようにも思われる。すなわち、訓練を積んだバリスタであれば、ある味や香りからある形容詞へと条件的に導くことができることを多かれ少なかれ想定しているし、そうでなければそうなるよう積極的に推し進めているように思われる。科学的測定としてまったく同じ味と香りを持つコーヒーが、両立不可能な別々の形容詞によって正しく説明される、というのは明らかにおかしい(カッピングする上でも不都合だろう)。あるいは、条件的に決定されうるからこそ、これは美的用語の適用ではない、というふうにも考えられるだろう。それでも、コーヒーに対するこれらの言葉づかいと、絵画や音楽に対するそれは、大筋においてやはり似ているように私には思われる。似ているにもかかわらず、条件的かどうかという点においてかなり異なるという事態については、説明を要するだろう。

結局のところ違いの分かる男にはなれなかった私には定かでないが、もしカッピングが定量的な営みなのであれば、用語の適用には正しさが問えることになる。また、芸術作品に関する解釈とは異なり、コーヒーの味や香りに関する解釈は、明らかに生産者の意図に依存するものではない。生産者が意図したフレーバーは、その通りのものとして堪能されるとは限らず、その場合に意図されたほうのフレーバーを正しいものだとみなすのはまったくもって意味をなさない。私は芸術作品の解釈に関しても多かれ少なかれ同じことを考えているのだが、それはともかく、コーヒーをなにかに例えるというのはきわめて面白い言語実践にほかならない。

話は、「コーヒーはいろいろなものに喩えられる」というのに尽きない。そのような比喩は、明らかにコーヒーの品質に関する価値評価の一部である。すると、ただちに提出される疑問とは、「スモーキーな」「アプリコットを思わせる」「はちみつのような」コーヒーだからなんだ、というものだ。そのような性質が、ただちに「良い」「美味しい」という評価に繋がるとは限らない。もしそうだとすれば、なぜ代わりに煙草を吸い、アプリコットをかじり、はちみつをすすらないのか。それらの性質を含むことは、「コーヒーのコーヒーとしての良さ」の一部なのか。もしそうだとすれば、コーヒーの良さはつまるところその他の食品や香辛料の良さに寄生的だ、ということにはならないか。

このような疑問は、メディウム・スペシフィシティの悪しき枠組みを、無理にコーヒーに持ち込むことかもしれない。ある意味ではうまければなんでもいいので、うまいものに類似していれば十分良いではないか、というのがひとつの応答だろう。これはコーヒーに関する機能主義的な説明である。なお興味深いことに、ビアズリーが考えていた美的評価もまさにこういった機能主義的なものであり、美的満足を与えることさえできれば、ある芸術作品がブロンズ製だろうとチーズ製だろうと、本物だろうと贋作だろうと、美的価値に大きな違いはない、という攻めた主張を展開していた。しかしながら、カッピングのプロたちが「うまければなんでもいい」と思っているわけはなく、そこにはよりきめ細かな評価体系があるのだろう。浅学にしてこちらも想像にとどまる。

コーヒーをめぐる言語実践には、豊かな美学的土壌がある。


3.

現在の私はもっぱら、ネスカフェのバリスタにマキシムのインスタントコーヒーを詰めて飲んでいる(メーカー非推奨)。『コーヒー&シガレッツ』を見てから、アメリカ資本主義の寵児たるインスタントコーヒーをだいぶ見直すようになった。ある意味では、これこそコーヒーたるコーヒーであるように思われるが、別の意味では依然として文脈補正に踊らされている。なんにせよ、洗い物が少なく済むのはいいことだ。

マキシムは、もっぱら、酸っぱくないというだけの理由で選んでいる。


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