皇后定子の遺詠についての私見

一条院皇后宮・藤原定子は、長保二(1001)年、産褥にて崩御したが、自身の身体が出産に耐えられない予感があったのか、『栄花物語』によれば3首の遺詠を密かに残していたとされている。

①夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき

②知る人もなき別れ路に今はとて心細くもいそぎ立つかな

③煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ

②は今生に別れを告げなければならない寂しさ心細さがいかにも感じられ、辞世と呼ぶに相応しいと思う。
③は自らの埋葬方法を、火葬ではなく土葬にしてほしいとの願いの表明である。
このあたりの歌からは、『枕草子』に描かれた明るく輝くような姿の裏で、定子が最期まで苦しみと対峙したのだということがひしひしと伝わってきて、胸に迫るものがある。

②③の2首に比べ、①はどうであろう。これは一条に宛てたものと思われるが、
「一晩中2人で共に過ごしたことを忘れないのであれば、あなたは私の亡き後、私を恋しいと思うでしょう。私を想ってあなたが流す涙の色が(最も悲しいときに流れる血の色なのか)知りたいですね」
というような意味でよいだろう。
悲しみすぎて涙が涸れると、ついには血の涙が出る…というのは、元は中国の古事のはずだが、今も「血涙」という言葉があり、広く使われた(る)悲しみの比喩表現である。

それで、この歌をどう解釈するのかだが、一般には、定子が一条への「忘れないで」との切なる思いを伝えた、という解釈が多いように見受けられる。
しかし定子の詠みぶりは、一条が自分のために涙を流してくれることは当然とばかりではないか? これは『枕草子』に描かれた、明るく機知に富んだ、あの定子の姿ではないか? 『枕草子』が描いた、苦しみを見せない定子の姿は、一条に見せていた姿でもあったのではないか?

そして思うのである。定子は自分の亡き後、一条がどんなに嘆き悲しむかわかっていた。自分のことを忘れてほしいとまでは流石に思わなかったのではないかと想像するが、それでも、一条が身を破るような嘆き方をするのは、定子は望まなかっただろう。
悲報を受け、この歌を受け取り、我を忘れてひとしきり泣いた帝が、ふと、もう一度この歌に目を落とす。
「その涙は何色ですか?」と定子が言っている。
我に返って涙に濡れた両手両袖を見る。現実には、血の色などではない。
「あら。そこまで深くお想いくださっていたのではなかったのですね。寂しいこと」
もちろん、本気で言っているのではなく、定子一流の冗談である。定子の悪戯っぽい笑顔が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
つまり、定子は一条を慰める歌を用意して世を去ったのではないか。

…まあ、私の妄想なのかもしれないが、これは『枕草子』に描かれた定子の姿からの想像である。
「宮にはじめてまゐりたるころ」での定子と清少納言のやり取りで、

(定子)「私を大切に思っている?」
(少納言)「思わないなどということがございましょうか」
…と同時に誰かがくしゃみをして、(くしゃみは縁起の悪いものとされていたらしい)
(定子)「まあ嫌だ。嘘をついたのね。もういいわ」
と奥へ入ってしまわれた。

という有名なものがあるが、これは自分の女房に対しての態度とはいえ、こういう人ならば、愛する帝に対し、単に「忘れないで」と訴えるだけではない歌を遺す力を持っていても不思議ではないと思った次第である。

#藤原定子 #一条天皇 #和歌 #古典

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?