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「教えてあげるポジション」を捨てると、文章は響く

会社の人と雑談していた時「夏休みはどこにいくか」という話になった。

私が「今度、夜行バスで名古屋に行くんです」と話すと、その人は鼻息を荒くして「私、去年一回だけ夜行バスのったことあるんですけど」と話し始めた。

一晩中バスに座るのでお尻が痛くなること、途中の休憩で必ずトイレに行くこと、などを私にアドバイスし「小澤さんは知らないかもしれませんけど、夜行バスはなかなか大変なんですよ」と、その人は一世一代のドヤ顔でキメて見せた。

実は私、18歳の時から年に2~3回は夜行バスを利用するヘビーユーザーである。
大学生の頃から旅行が好きで、交通費をちょっとでも節約して、その分そこでしかできない体験や美味しいものをお金を落とすようにしてきた。

東京~新大阪は新幹線や格安航空でもなんだかんだ往復3万くらいかかるが、夜行バスを使えばその三分の一くらいの金額で済む。
社会人になってからもその安さに目が眩み、しばしばお尻が痛くなったり、途中休憩でストレッチしたりしながら、夜行バスに揺られて旅をしてきた。

たった一度だけ夜行バスに乗ったというその人は、その後も私に尻用のクッションを買うようアドバイスを続けた。「何にも知らない小澤さんに教えてあげる自分」に、少し酔っているようにも見えた。

よく文章のワークショップをしていると「上から目線にならないように書くには、どうしたらいいですか」と質問される。
そのアンサーとして私は「教えるポジションを捨てる」ことを伝えている。

人はそもそも関係性のない人に、モノを教わりたくない生き物だ。
学校でも「この先生の言うことはなぜか信頼できる」とか「あの先生が言うのは正論なんだけど、でもなんか腹が立つ」と感じたことはないだろうか。

自分が「この人から教わりたい」と思っている人以外から一方的にアドバイスをされたり、勝手に決めつけられたりするのを、そもそも人間は嫌がる生き物だと思う。

誰かにアドバイスしたり、モノを教えるポジションというのは非常に甘くて、美味しいものだ。だから人はなかなかそこを手放せず、自分がいかにすごいか、自分がいかに物知りかをアピールしてしまうが、そうするとますます人は離れていってしまう。

読者を「何にも知らない人」と想定して書くと、自然と文体は上から目線になる。だから上から目線の文章を書きたくない人には、読者を「大切なことは全て知っている存在」だと想定して書くのをオススメしている。

文章で相手を認めさせたり、ましてやコントロールなんて出来ない。読者の中にある想いをそっと気づかせたり、思い出してもらうくらいのつもりで書くと、上から目線の文章というよりも「同じ道の少し先を行く人」くらいに感じてもらえる気がする。

相手を「何にも知らない愚かな人」と捉えるか「すでにもう大切な体験を十分積んできた人」と敬意を持って捉えるか。

文章には書き手の全て、無意識も含めた全てが反映されるのだ。恐ろしいことに。


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