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無意識に・ナチュラルに人種差別をしてしまった自分の話

先日、鎌倉駅のカフェで知人Cさんと仕事の打ち合わせをしていた。鎌倉はどこも混んでいるが、駅の真上にあるカフェは広くて開放的な雰囲気が好きで、たまに利用している。

順調に打ち合わせを進めていると、私たちの隣の席に高校生と中学生くらいの子どもを二人連れた、観光客と思しき女性の3人客が座った。おそらく中国の言葉を、広い店内に響き渡るくらいの大きな声で話している。

しばらくして、注文したコーヒーとパスタのセットが3人前、隣の席に運ばれていた。3人は、背中を丸くかがめてパスタに食らいついた。千と千尋の神隠しの冒頭で、千尋の両親が豚に変えられてもなおエサに喰らいついていた描写があったが、まさにあんな感じだった。

セルフサービスにも関わらず、汚く食べこぼしたお皿やコップ、引きちぎった紙おしぼりはそのまま、大声でその3人客は店を後にした。

私は思わず「いやあね、中国人って」とボソリと口に出した。「せっかくコロナで鎌倉とか観光地も静かで綺麗になったのに、ああいうマナーの悪い人たちがうるさく汚くして、本当にやんなっちゃう」とため息をついた。Cさんは、ただうなづいていた。

その数週間後、Cさんから中国のお土産ですと小さいケーキをもらった。旅行ですか?と聞くと帰省だという。なんでも話を聞くと、Cさんのお母様は中国の方だということだった。頭から水をかぶせられた気持ちになった。

自分は差別とは無縁の人間だと、自分では思っていた。国や人種で人を区別するなんて最低だ。そう思っていたのに、自分は観光地で見た一部の人たちから、その国の人たちを差別していたのだ。

確かにCさんの名前はちょっと日本人らしくないとは思っていたが、まさか自分が無意識に見下していた存在と、いつもお世話になっているCさんが同じルーツを持つ人だとは夢にも思わなかった。
Cさんに謝るべきか迷ったが、今さら蒸し返したらまたCさんを傷つけるのでは・・と思ってしまって、それ以上何も言えなかった。

私たちは、自分と遠い存在の人や相容れないと感じた人を、遠ざける傾向にある。それはご先祖様が、今のように安全で冷暖房が効いた環境とはかけ離れた、過酷な状況を生き延びる中で身につけてきた知恵だ。
そして人は、これまで生きてきた経験を常に参照して生きている。「中国人はうるさい」「日本人は静か」という「X=Y」に当てはめるのは、複雑な社会を生きる上で非常に便利だ。でもその考え方は、時に人を傷つける。

私たちは生きていると、ついつい自分の過去の経験から目の前の出来事を判断してしまう。でも「それって本当にそうなのだろうか?」と問いを持つこと、そして一歩引いた目で物事を見ることは、不用意に誰か傷つけることを減らし、自分を豊かにすることにつながるように思う。

以前、私の友人でどうしても韓国の人たちが好きになれないという人がいた。
でもお子さんがカナダに語学留学した際、慣れない環境に戸惑うお子さんによくしてくれたのが韓国人の人たちだと聞いて、それ以来韓国の人たちへの嫌悪感が消えたということだった。(韓国では日本以上に英語ができないと出世できないシステムらしく、留学生が多い)

自分の見ている世界を「それって本当かな?」と常に問いを持って見ることが、真の平和につながるのかもしれない。









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