ステキ料理教室に行ったけど、飛び出して逃げ帰った話
先日、お料理教室に行った。友人の家に遊びに行った際ごちそうになったお料理がとても美味しくて、彼女が行ったという料理の教室を紹介してもらい、習いに行ったのだった。
初めて行ったその教室は、駅から歩いて10分。
とても立派な一軒家で、チャイムを押したところおっとりした先生が出てきて、台所に通された。私の他には4名参加者さんがいらして、美味しい料理の作り方を習った。
11時30分から調理して、13時ごろから実食。その辺りまでは楽しかったのだが、参加者の方にえらいおしゃべりな常連生徒さん(以下Aさん)がいて、食べ終わってからはAさんのトークをひたすら聞く会になっていった。
Aさんの話す速度は凄まじく、他の人に話す隙を一切与えない。ビーガン料理を習ったとか占いに凝ってるとか、カウンセリングのスクールに行ったら自分だけ飛び抜けて優秀だったとか。気が付けばAさんの独演会が始まって1時間が過ぎた。
こういうとき、先生が場づくりの心得があると「Bさんはどうですか?」とかあまり話してない人に話を降って全体のバランスを調整しようとしてくれたり、「もう時間なので、話したい人は残ってお話しにしましょう」と一旦閉じてくれたりするが、こちらの先生はとにかくおっとりしていて、ただただAさんの話を微笑んで聞いている。
試しにスマホをいじり出してみたが、Aさんは話を一向にやめそうになかった。獲物を見つけた肉食動物のように、格好の話し相手である私たちを離してくれそうにない。やっとのタイミングで「すみません、用事があるのでお先に失礼します!」と私が教室を飛び出したのは15時を過ぎた頃だった。
こうした「いま何のために、私はここにいないといけないのだろう?」と、自分がそこに存在する意味を見出せない時間が、私は苦痛だ。
世の中には、一方的な話を聞かされても好奇心を持って聞き続けることのできる人もいるから、そういう人たちは本当に尊敬する。
興味のない人の話を聞き続けなければいけないというのは、私にとっては舞台の上で台詞も振りもないのに、そこにいなければいけないような感じだ。真ん中で下手くそな歌を大声で歌っている人を、スポットライトも当たってないのに全力でヨイショしなければいけない。これが好きな人もいるのだろうが、自分にとっては苦痛そのものだ。
ここで自分が言いたいのは、マシンガントークの人はダメとかそういうことではない。個人的には、そこにいる人たちみんなが輝いている場が好きというだけなのだ。話すのが好きな人、話すのが苦手な人、いろんな人がいていい。それぞれが好きなことを自由にしたり話したりすることが許容されている場は行くとホッとする。
おそらくこのお料理教室の先生は、今日初めてきた参加者より、常連さんがいかに気持ちよく過ごすか、常連さんの機嫌を損ねないかを大切にしていたような気がする。
それを自分は勝手に感じ取ってしまって、ヨイショしてしまう自分が嫌だった。。うん、書きながらずいぶん自分の気持ちも整理されてきたぞ。
よく「文章が上手くなるためには、いわゆる名文と呼ばれるような文章を読んだ方がいいのでしょうか?」と聞かれる。それもいいのだが、個人的にはつまらない文章や思わず読み飛ばしてしまった文章も読むのもお勧めしている。
何がこの文章をつまらないと思わせたのか。なぜ読み飛ばしてしまったのか。そうした視点で読んでいくと「そうか、自分はこういう文章は嫌なんだな。こういう風には書かないようにしよう」という気づきになったりする。
素晴らしい場に行くのも勉強になるが、自分がみっともない・情けない・恥ずかしい想いをした場の経験というのも、確かな学びになるようだ。
お料理教室から飛び出して、汗だくで入った駅前の冷房の効いたカフェで、火照った心身をアイスのカフェラテで冷やし一服しながら、そんなことを思ったりした。
今日もお疲れ様でした。
秋からの文章講座は、まだまだお席がございます。
入門クラスは毎月実施中。
週末お休みの方も、お勤めの方も、素敵な時間になりますように。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。