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当然は、人の数だけある

ある日、会社で上司から「この文書、タイトルの部分を変更しておいて」と指示があった。

うちの会社ではいったん発表された文書にはすべて、番号が振られる。
タイトルが変わるということは番号も変更になるのだろうか。

そう思った私は念のため上司に「変更点はタイトルだけですか?」と確認してみた。
上司は「そうだよ」と答えられたので、wordファイルを開いてタイトルだけ変更し、印刷したものを上司に持っていった。

上司の机に置き、5~6m離れた自分の席に着いた途端、上司から「小澤さんだめだよ、コレ。番号が変更されてないじゃん!」という大きめの声が飛んできて、フロアに響いた。
周りの目線が自分を刺してくるようだった。

今の上司との会話で、お互いの心の声を付け加えてみると

私「変更点はタイトルだけですか?(番号も変わるんじゃないですか?)」
上司「そうだよ(もちろん番号も変わるけどね)」

ということになる。

どちらが悪いとかでなく、上司も私もお互いの前提がそろっていると勝手に思っていたのがよくなかったと、振り返って思う。
でも、こういう「お互いの当たり前がすり合っていないがために起こるトラブル」って、日本中の会社で、いや会社以外の場所でもかなり起こってるんじゃないだろうか。

文章でも、書き手と読み手の前提がそれぞれズレているため伝わらないということはよく起こる。

例えば「かわいい女の子と出会った」という文章。
これだけだと、このかわいい女の子というのが小学生くらいの女の子のことなのか、アイドルなのか、女優さんなのか、はたまたアニメのキャラなのかわからない。

ちなみに70代のうちの父親は自分より1歳でも年下の女性のことを「女の子」と呼ぶため「知り合いの65歳の女の子」と言ったフレーズが実家では登場する。

もし「女の子は小学生」という前提の人とうちの父が「女の子」について話をするなら、まずはお互いの前提をそろえない限り、いつまでたっても二人の会話は平行線のまま、どこかの水平線までいってしまうだろう。

人それぞれ、当たり前は違う。
だから伝えるとき、自分の中の当然と、目の前の相手の当然は違うこと。
それを思い出して、お互いの当然をすり合わせる関わり方をめんどうくさくても目指すことが、遠回りでも相手と分かり合う第一歩なのだと思う。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。