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私の愛の形と自分軸

目の前の人を全力で愛す、それがかつての私の形だった。

昔の恋人が転職のためにお金を貸して欲しいと言ったら貸してあげたこともある。
しかし彼は一月に5件しか応募をしておらず、もちろん決まることなく、1ヶ月後に私は憤怒した。
私にとって転職は「午前も午後も手帳が埋まるくらいにがっつり頑張るもの」だったからだ。
そこからその人に対する信頼が全くなくなったと言えるのだろう。

他にも結婚式の後に諸々のことで揉める義理の父に対して、恐怖感がありながらも全力で抗議したことがある。
私の後ろで夫は黙って震えていた。
その時のことを私が話したら、夫は「君は怖くないんだと思ってた」と言った。
こいつの頭沸いてんのか?となった。
そして、それだけ私を苦しめた義理の父のいる土地に「40になったら戻りたい」と言い出した。
自分は妻のスカートの後ろに隠れて怖くないもんね。気持ち悪さすら覚えた。

目の前にいる愛する人が困っていたら全力で向き合って、全力で助ける、そして二人で乗り切る。
それが私の愛の形だった。
しかし、上記の彼らは「私が辛くない」と思っていた。
頭沸いてんのか。

これは自分軸、他人軸の話ではない。
彼らは自分のことしか見えていない人だ。
よく「男は自分軸」と言い出す人がいるが、それは本来の「自分軸」とはなんとなく違う気がする。
「自分に軸」があれば、他人に迷惑をかけていることや相手が悲しんでいることを観測できるはずなのだ。私は「自分軸」を「人の心の境界線を侵害しないもの」で、「相手に選択を強制させないもの」、要するに相手の「選択の輪」を侵害しないものだと考えている。
よって、彼らの行動のそれは「相手に対する思いやりの欠如」なのではないかと思う。

私はダメンズウォーカーなのかもしれない。
そして、最近はやめたことがある。
愛する人のために全力を尽くすことだ。
その代わりに自分のために全力を尽くす。それだけだ。
でも相手に対する思いやりは忘れないし、他人の選択の範囲は侵害しない。
「それが私の愛し方で自分軸」だ。

このバランスが難しいのだが、この天秤が均衡を取れるのが私にとってベターなのだろう。
恋愛だけでなく人付き合い全般でもそれをしていきたいと思った。

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