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人間不信の自己嫌悪



私が高校生の頃、呪文のように唱えていた言葉だ。
あの頃の自分を表す的確な言葉だと思う。
思春期特有の感傷もあったかもしれないが、今でも時々、あの沼にはまってしまう時があり、ああ、またはまったな、と思うのである。
そういう時は、抜けようね、と自分に声をかける。

それは、あの頃には多分まだ無かった、自己肯定感という言葉に通じる、生きていく上での基礎だと思う。




私は田舎の公立中学から、都会の私立の女子高に入学した。
同じ中学出身者は誰もいない。
私の地元では公立高校へ行くのが当たり前で、私立は滑り止めだった。
そう、私は公立を落ちたから、仕方なく滑り止めの学校に入学したと思っていたのだ。

でも他の人は違っていた。
皆、入りたくて入学していた。
だから希望や自信に満ちていて、高校生活を満喫するぞ!というオーラに溢れていた。
勉強も部活も行事も、どのシュチュエーションでも輝いてみせる!
その気迫に私は慄いてしまった。

そのエネルギーもそうだが、その為の駆け引きについていけなかった。
陰では一生懸命勉強してるのに、していないふりをする通称こそ勉。
表面的には平穏な空気をかもしつつ、あっという間にグループを作り、居場所を確保する洞察力や行動力。
自らリーダーになる為の根回し済みの発言力。

すべてに驚いているばかりだった。
今まで見た事ない世界、自分が経験したことない世界、自分にできると思えない世界。
焦りとか嫉妬とか劣等感とか、そういうことだろう。


私は学校へ行くことが困難になった。


その時、母が言ったことは3つだけ。
『お弁当を作る都合があるから、休むなら早めに言って』
『欠席の連絡は自分でしてよ。そんなにしょっ中するのはイヤだから』
『休んでもいいけど3年で卒業はしなさいよ』


登校を強制されないから有難いようにも受け取れた。
でもどこか肩透かしをくわされたような、関係ないところに追いやられたような、体裁と母の都合ばかりのようにも受け取れた。

入学前に "本当は産む気がない子だった"  "女の子でがっかりした" と言われていたのも関係していたと思う。

母はなぜそんなことを言ったのか聞いてみた。
答えはシンプルだった。
"だって本当のことだから"


その頃私は、人の心には裏表があることをはっきり見たのだろう。
全幅の信頼を寄せていた(寄せるしかなかった)母の本音を知り、この世の人達にはみんな本音と建前があることを思い知らされたのだろう。
その前で私はどうしていけばいいのか途方に暮れていた。


自分を含むこの世の誰のことも信じられないと思った時、そこからの出口の光が一筋も見えなくなった時、人は絶望のどん底に落ちるのだろう。

人は信じられるものがないと生きていけない。
それは他者との信頼だけでなく、自分だけの希望だったり信仰だったり安らぎでもいいのかもしれない。


まずは自分の感情を信じてみよう。
何に心が動いたか。
それは確実に確かなものだ。


最近心が動いたこと。
ブルーインパルスの飛行が実際に見れたこと。
LINEに花火と入力すると、画面に花火が上がること。


そんなことでいいじゃない。
こんな些細なことしかないなんて…と言わないで。
私は嬉しかった。
私はちょっと笑顔になった。
それが確かな事実なのだから、それでいいじゃない。
きっとそれが大事だから。


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