自分らしくと稼ぐの両立について②
こんにちは!おはなし屋なおとです。
今日のおはなしは前回の続きです。前回のおはなしは、アスリートをしていた僕がスポーツをやめてビジネスの世界に飛び出すきっかけになったエピソードを話しました。
大好きなスポーツを自分の思ったようにやれない葛藤。お金に対して拒否反応を示すアスリートだった過去の僕。人の期待とプレッシャーと批判と、なんやらかんやらでわけが分からなくなった後。今日のおはなしはそこから始まります。
それでははじめまーす!
前回の記事を読んでからのほうが楽しめるかもです!↓
稼げたけど疲れちゃった
拭えない違和感と猛烈な追い風についに心が折れた僕はなんの考えもなしにグラウンドを去った。仕事も競技も無くなった僕は特にやることもなく、心にあるのは『もう誰にも媚びたくない』との気持ちだけだった。
そんななか、Twitterから飛んできたDMをきっかけにブログビジネスの教材を購入して、ブログに取り組み始める。
本当にやることがなかったので、課題を出されればあっという間に提出し、2ヶ月とすこしでブログでの収益にこぎつけることができた。もちろん金額は大したことなかったけど、初めて自分の価値を買ってもらった旬感は相当嬉しかったのを覚えている。
それまではどちらかというと『ブログで稼ぐ世界があるだなんて本当?経験してみたいな〜』くらいのモチベーションで取り組んでいたのに対し、初めて売上が出たあとは『決めた、これで行けるところまで行く』と一瞬で決意が固まってしまった。
それほど自分で作ったブログで収益が出たことが嬉しかった。給料とは違うお金の稼ぎ方を1回経験したら、これをもっと深めたいという想いが止められなくなって、収益が出た2週間後には彼女を置いて地元を飛び出して上京した。
上京してからまあそれはそれは色々とあったのだけれど、その話に関しては過去の記事などでたくさん語っているので、ここでは割愛する。
とにかく僕は自分の力でお金を稼ぐために上京して稼ぎまくるための旅に出たのである。無謀な挑戦だったけど、その想いは功を奏し、2年間ほどは全くお金に苦労することなく安定して稼げていた。
その当時の僕が大事にしていたことは『自分という人間が身体一つでどこまで稼げるのか』という事だったので、お金をかけて資格をとったり勉強会や交流会に参加することは一切なかった。必要ないと考えていたし、その考えは今も変わってない。とにかく僕にとって『稼ぐこと』はそのくらい大事だった。
上京してすぐはいかにもありがちな『とにかく東京にいるイケイケの人たちにたくさん会う』という戦略をやってみたけれど、すぐこれはちがうなって思って辞めた。
別に東京にいたからイケてるって事はなかった。東京だろうが田舎だろうがダサい人はダサいし、東京は母数が多い分ダサい人が圧倒的に多かった。1人のカリスマに100人くらいのダサい人が群れをなして集まっているイメージ。そこでなんとなく商売の本質を肌で感じることができた気がする。
「出会いを大事に!」「自己投資だよ!」「稼ぐ力を身に着けよう!」と群れている人達と一緒になっては絶対稼げないと身体で学んだ。あの人達は自分を肯定してくれる人との出会いしか大事にしないし、自己投資をしているのではなく自己投資だよと言われたものにお金をただつぎ込んでいるだけだし、稼ぐ力なんて1人も持っちゃいない。
ここにいたら危険だと田舎者センサーが告げてくれたので、人と会いまくる戦略は早々にやめた。所属していたブログのコミュニティも数ヶ月で離れた。
そしてそこそことんがった小さい集団を形成しつつ、僕は自分のコーチングセッションを売って自分の売上を伸ばす生活をしていた。
派手に売上が出たら仲間を連れて歌舞伎町のビルの11階にある店で焼肉。他の会社と飲み会に遅れて参加したと思えば、ビール一杯だけ飲んで3万円の食事代をサッと出して帰る。まあ羽振りが良かった。
だって稼いでも使うところがないし、どのみち税金で消えるお金なら気持ちよく使ったほうがいいじゃんって考えていた。おかげさまでそこそこ仕事もうまく回っていた。
そんな日々に終わりが来たのは、上京して1年半がたったある夏の日だった。ついに僕の長期セッションの契約に1本200万円の値段がついた。買ってくれたのはすでに継続セッションを3回リピートしてくれていたクライアントさんだった。
こんなことあり得る?という興奮と、ついにアスリート時代の年収に近い金額を、しかもたった1回の取引で、さらに身体一つで稼げたことに興奮した。
そしてそこからは一切新規の仕事を取らなくなった。目指していた『自分はお金を稼げるんだ』という実感が手に入った今、これ以上事業を展開する理由を見つけられなかったからだった。とりあえずお金あるし、しばらくフラフラしようと思った。
そこから10ヶ月間、ほとんど売上が上がらない日々を送った。最初の数カ月は自分の結婚式や買ったバイクで遊び回るのに忙しく、その後は年越しと引っ越し。気づいたときには200万円の日から6ヶ月経っていて、いまさら何かを始める気にもなれなかった。
後半の4ヶ月間は非常に無気力で、やるせない日々を過ごした。減っていく預金口座を眺めては『ヤバいけどなんもやる気おきねぇ』とつぶやく日々。今だったら思う。その時の僕は稼ぐことに疲れていたんだね。
今なら思うこと
貯金が尽きてからバイトを始めてここまでコーチング事業を立て直すのは本当にしんどかったのだけれど、その話も過去の記事で話しているから置いておきます。
これが僕が上京してから月収200万円になってからすっからかんになるまでの道のりでした。今その期間を振り返ってみると、気づくことがあります。
このときの僕は、自分の暮らしのことを一切考えていませんでした。僕を突き動かすのは承認欲求。アスリートではなくなった自分でも価値があることを証明したかったんです。
そしてその証明する手段として『自分の身体一つでどこまで稼げるか』というものさしを選んだ。つまりに『自分の得意なことで稼げれば何でもいい』というマインドだったんですね。
だから月収200万円という大台に自分が乗った時に、心のどこかでその想いが成仏したのでしょう。手が止まってしまいました。
もちろん生きていくのにはお金が必要で、あればあるだけ使う生活をしていましたから、特に高価なものを買わずともたった10ヶ月で稼いだお金の殆どを使い切ってしまいました。
その時に僕は『あれ、おかしいぞ?』と思ったわけです。生活に必要なお金がなくなって、今度はお金を稼ぐ理由があるのに、自分の手が動かない。今お金がなくて困っているのに、お金を稼ごうと思えない。
そんな自分を責めまくっていたし、最後の2ヶ月は抜け殻のように過ごしました。そしてGWが明けたくらいの頃、僕は近所のレンタカー屋さんのバイトの面接に行くことになるのでした。
僕は自分の暮らしのことを全く考えていなかったんですね。稼ぐ力さえあればオールオッケーだと思っていた。自分がどんな暮らしをしたいかなんて考えたことなくて、ただただ自分の力を証明したかった。そんなモチベーションだったので、切れた時に動けなくなっちゃったんです。
そのタイミングではじめたアルバイトで、僕は大きな虚無感に襲われることになります。そこから少しずつ、自分にとっての理想の暮らしってなんだ?と考え始めるわけです。次回は『自分らしさと稼ぐこと』最終回、おはなし屋なおと復活編です。笑
稼ぐことだけに一生懸命になった僕は結果的に長く仕事を続けることができなかった。たとえ大きな成果を出して自分の能力を証明したとしても、成果が出た次の日も当たり前のように毎日は続くことを見落としていた。
仕事もお金も継続して必要になるもの。カンフル剤に頼った急加速は長くは続かないよ、ってことを今日はあなたに伝えたいです。
それでは次回おはなし屋なおと復活篇、お楽しみに!
次回の話はコチラ
追伸
今日の話で触れた過去の記事を掲載しておきます↓
200万円を稼いでそれをすべて失うまで何もできなかった話を含め、僕のこれまでを全部書いた記事です。分厚いけど一番読まれている記事。
〜こくちゾーン〜
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