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圧倒的な量をこなすための工夫というか意識というか

今日は男2人で昼飲みに行きました。ドトールで待ち合わせをして、串カツ田中に行って、隣のラーメン屋に移動して豚骨ラーメンを食べて、ホームラン食堂でダラダラとハイボールを嗜みました。なかなかいい午後でした。


3件目で話しているとき、ふと友人が「お前のすごいところは暇なときでもちゃんと仕事するところだよな。本も読むしブログも書くし。俺はついボーッとしちゃうから、そういう働き方は憧れたけど厳しかったわ」と言いました。

言われてみると確かに僕は昔からそういうタイプでした。自分が必要だと思ったことは誰に何を言われずともやります。「やればやれるしやらなければやれぬ」と思っているからです。

少し深ぼって考えてみます。僕にとっては当たり前のことだけど、確かに「行動量」や「努力量」で評価されることが多い。今もnoteを書きまくっていますが、正直「え?食っていきたいならこれくらい普通にやるでしょ?」くらいのスタンスでいます。特別なことはしていないつもりなんですが…

「どうして圧倒的な量をこなせるのか?」という質問を自分に投げるとしたら、「1歩進むごとに自分に成長を感じることが楽しい」と答えると思います。

目の前の「ブログを1回更新する」ということに全力を尽くして投稿ボタンを押すと、「テレレレッテッテッテー」とレベルアップのファンファーレが鳴る。そんなイメージで書いてるんですよね。

そういえば僕、アスリートの時に「筋トレの成果がめちゃめちゃ出やすいやつ」だったんですよ。同じトレーニングをしているのにグングン体が大きくなって、挙上重量も上がっていく。周りの友達に「なんでお前そんなデカなってんねん」と言われていました。

理由はブログを書きまくれるのと同じです。僕は感覚が繊細なので、腕立て1回しただけで胸の筋肉が張っていることを感じることができます。

毎セットごとに「お、強くなってんな〜」と思うんです。もう1セットやればもっと強くなるな。やろう。あーキツイ!できた!おお、めちゃめちゃ張ってるやん。もう1セットいけるかな…?そんなことを繰り返しているとドンドン強くなるんですね。

あとはトレーニングをしていない時間も「ここでご飯をもう一回おかわりした方が胸筋つくかな…」とか、そういうことばっかり考えるので、鍛える行為がドンドン楽しくなっていくんですね。

そうしているうちに気づいたら人の何倍も量をこなすようになって、しかも1回の精度も高いので、自然と向上していくというわけです。

僕にとっては当たり前の感覚なんですが、人に褒められるってことはきっと当たり前ではないんだと思います。僕は努力しているつもりはありません。自分にとって「やらないよりやったほうがいい未来が待っている」と感じることは、やらないよりやった方がいいじゃないですか。

どうせやるなら楽しい方がいいし、成果がたくさん出た方がいいし、やっていてしっくりくることがいいですよね。だから「これだ!」というものを見つけたときは嬉しくなります。嬉しくないとこんなことできません。やればいいってもんでもないですから。

やっぱり書いていて「こんなの当たり前じゃん」って思うんですよね。ということは、これは紛れもない僕の長所ってことです。僕は1人で黙々と何かがやれる。誰に強制されることもなく。勝手に信じて勝手に動ける。コーチも同じようなこと言ってくれてたなぁ…

才能は「こんなの当たり前でしょ?」と感じるようなことです。キラキラした素晴らしい能力のことではありません。当たり前がゆえに地味で、「こんなの何に使うねん」と思うようなことです。これをどこまで昇華できるのか。自分らしく生きるとはそういうことです。

いただいたサポートはミックスナッツになって僕のお腹の脂肪として蓄えられます。