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バイバイ、マリア 【SS】

 マリア・ウォンに再会したのは、帰国まで後一月を切った、雨上がりの土曜日だった。
 私は友達へ贈る出産祝いを買うため、ショッピングモールへ向かって歩いていた。地面の水溜まりは既に蒸発し消えていたものの、空気中に立ち籠める湿気が身体中に纏わり付き、顔の半分を覆うマスクがいつも以上に息苦しく感じられた。マスクを少し浮かせて深く息を吸い込もうとすると、斜め前をゆっくりと歩く老人たちから酷い雑巾の臭いが漂ってきて顔を顰めた。何故この国の人たちは、ここまで洗濯物の臭いに無頓着なのだろう?マスクを貫いて感じられる悪臭に気持ちがザワザワと波立ったが、こんな生活もあと一か月と心の中で呟き、歩く速度を上げて老人たちを追い抜いた。交差点に辿り着くと、テコンドーの道着を着た少女が水と金魚の入った透明ポリ袋を目の高さまで持ち上げ、愛おしげに見つめていた。その一瞬の光景はとても尊く感じられ、彼女の周囲だけが淡く輝いているようだった。じっと見つめているだけで、濁り汚れた心が一瞬で清流のように澄んでゆく、若い命とそこから発せられる愛情の力。でも、彼女はこの異常な都市から出られずに生きて行くのだろうか、その金魚だっていつ取り上げられて殺されてしまうかもわからないのに……そう思うと、晴れかけた空にまた暗雲が立ちこめてきたときのような、不安な気持ちになってしまった。強いられ、踏み躙られ、自由に考える力や意志を殺されてゆく人々。ポリ袋の中みたいに狭い街で、ゆらゆら揺れて、揺らされて。

 「ナオ?ナオじゃない?」

 信号が青になった瞬間、急に左肩を叩かれて飛び上がる程驚いた。後ろに立っていたのは、ヨガ用のウェアを着たマリアだった。肩にはヨガマットの入ったバッグを引っ掛けている。
 マリアとは前の職場で知り合った。チームは別だったけれども、時々話すこともあった。いかにも外国帰りという風情で、この都市では珍しいすらりとした長身をフランスの高級ブランドで固め、声が大きくいつも目立っていた。彼女はいつも「こんな国うんざりだわ、すぐにでもパリに戻りたい。私ね、フランス国籍を持っているの。従姉妹もパリにいて、ルームシェアはいつでも歓迎だから早くいらっしゃい、って言ってくれているのよ。」と自慢げに言っていた。だから私は、状況が刻々と悪化していくこの都市に彼女がまだ残っているとは思っていなかった。

 「マリアじゃない、久しぶり!元気だった?」
 「ええ、何とかね。」
 「私、すっかりあなたはもう移住してしまったかと思っていたわ。」
 「移住?まあ、できるならしたいけどね。」
 「あなただったらできるじゃない。私も来月この街を出るのよ。」
 「えっ……帰国するの?」
 「ええ。」
 「そうなの……それは良かったわね。先月、エディも帰国してしまったし、マリア・ホーもカナダに移住して……あのアレックスですらロンドンに移住したわ。あんな英語じゃウーバードライバーも無理だと思うけどね。どうやって生きていくつもりかしら。」

 心にスッと冷たいものが流れ込んできた。さっきの道着の少女を見ている時のような清々しい冷たさではなくて……温かい気持ちを凍らせるようなもの。だから私は、我慢できずに言ってしまった。

 「あなたは?フランス国籍があるんでしょ。こんな街とっとと出て行かないと、いつどうなるかわからないわよ。」

 マリアの焦茶色の瞳が、暗く曇った。私は彼女の気持ちが沈もうが、どうでも良かった。自由を求めて未知の世界へ旅立ったアレックスを嘲笑う権利は、呑気にヨガパンツなんて履いて過ごす彼女には無いのだから。

 「私は……私は、仕事があるから。」
 「仕事なんてパリで探せばいいじゃない。あなたフランス語だってネイティブレベルでしょう。」
 「ナオ、あなたわかってないわね。そりゃあ、私はフランス人だもの、フランス語が話せるのは当たり前よ。でもね、フランスには碌な仕事がないのよ。私はここにマンションもあるし、ローンもある。それにフィアンセに、マトラッセに、トイプードル。全部をキープしたいと思ったら、今と同じだけ稼がないといけない。フランスでは無理よ。それに子供が産まれたら、メイドなしでどうやって仕事をするの?移住なんて馬鹿げているわ……私にとってはね。」

 マリアは一気に畳み掛けるように言った。まるで、自分に言い聞かせているようでもあった。きっと彼女のマスクで覆われた顔半分……口元は、隠しきれない自嘲の気持ちで歪んでいるのだろう。声色からはそれが感じられた。
 私は言いたかった、「あなたが稼いだお金も、資産も、トイプードルの命も、最早安全に所有し続けられるという保証は全く無いのに、それでもここに自分を縛り付けておくつもりなの?」と。喉元まで言葉がせり上がってきていた。でも、言わなかった。何人もの友人が、知人が、そうやって全て諦め、自分の可能性のドアを自分で閉じてゆくのを見てきたのだ。残ることに決めた人たちには、もう何を言っても無駄だ。人間はどうやったってわかり合えないのだ。

 「……そろそろ行かないと。私、これからヨガのクラスがあるの。」
 「そう……。じゃあ、マリア、元気でね。」
 「ナオ、あなたの人生の幸運を祈るわ。バイバイ。」
 「バイバイ。」

 私はそのままマリアと別れた。もう二度と会うこともないだろう。
 バイバイ、マリア。
 彼女の後ろ姿に、ビニール袋の中でユラユラゆれる金魚が重なった。

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