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スズランの香水

 マヌエルがルイ・ヴィトンで買った小物がうちに届いた。
 「またそんな無駄に高いものを買って。もうちょっと安価なものを探すべきだったんじゃないの。」
 「いいからいいから。ほら、香水のサンプルがついてるよ。あげる。」
 マヌエルは小言を言い始めた私の右手をとり、小さな白い箱をふたつポンと載せた。
 「これで僕だけじゃなく、君にも良いことがあった。」
 「えー……これ、男性向けじゃないの?」
 「さあ?とりあえず、ちょっと嗅いでみなよ。片方は僕がつけてみよう。」
 私はしぶしぶ箱の中から香水を取り出し、シュッと手首にかけてみた。マヌエルも隣でシュッとひと吹きしている。途端に濃厚な外国製香水の香りが押し寄せ、書斎の中に充満した。
 「うわ、結構濃い。でもこれ、良い香りだわ。トップノートは好き。えーと……APOGÉEっていうんだ。」
 「僕の方も良い香りだよ、嗅いでみて。」
 「本当だ、オリエンタルな感じというか……胡椒……寺の線香?」
 「何それ。」
 「とにかく、スパイシーだよね。それにしてもさ。」
 「ん?」
 「私、こっちの、APOGÉEの香り、どっかで嗅いだことある気がする。何だか凄く懐かしい……何の匂いだろう。」
 しばらくクンクンと手首の匂いを嗅ぎながら考える。でも、中々思い出せない。何かヒントはないだろうかと、ブランドのウェブサイトを検索して香水のページを開いた。
 「あったあった!……あー、Lily of the valley……スズランだ。」

 スズラン、その一言が脳の奥深くで眠っていた記憶を呼び覚ました。脳裏に過去の画像が高速で展開する。幼い頃に暮らした、北国の小さな町。海難事故の死者を弔う記念碑へと続く、長い長い坂道。母と私はゆっくりと歩いていた。ふと路肩に視線をやると、小さな緑色のものが落ちていて、きらりと光った。何だろう?と思い拾うと、それは可愛らしい小瓶だった。丸っこい透明の小瓶の中には緑色の液体が満杯に入っていて、平仮名で「すずらん」とファンシーな文字が書かれたシールが貼られていた。
 「あら、何それ。香水じゃない?」
 「香水?」
 母が覗き込み、私が見上げる。
 「きっと良い香りがするよ、開けてみたら。」
 小さなプラスチックの蓋を開けて恐る恐る嗅いでみると、爽やかで透き通るような香りが鼻腔を通り抜けた。その時はまだスズランがどんなものなのかわからなかったが、その美しく凛とした香りに私の幼い心は惹きつけられた。以来それは私の宝物となり、時々蓋を開けて匂いを嗅いではうっとりとした気持ちになったものだった。その後、私は海の見える小さな町を出て、スズランが美しく咲く大きな街へと引っ越した。小学校に上がってからは、スズランの香水はオルゴール箱の中にそっと収められていて、祖母の形見の美しいペンダントやローズクォーツの欠片と一緒に、私の心をときめかせるコレクションの一つになった。

 まさか、こんな遠く離れたところでスズランの香水に再会するとは思わなかった。
 あの小さなスズランの香水と一緒にいた頃の私は、自己評価がとても低く、他人が怖くて、いつも怯えていて卑屈だった。自分の意見なんか言えなかった。勿論いじめられたし、大勢の輪には入れてもらえなかった。陰気で動きのぎこちない私は、社会ののけ者だった。
 でも、私はあのスズランの街を出て、海を越えた他所の国で長い時間を過ごし、幾つもの苦難を乗り越え、好きなものは好き・嫌いなものは嫌いと言えるようになった。外国語もいくつかわかるようになって、仕事でも認められて、ちょっとだけど自信を持てるようになった。私は昔よりもずっと強くなったし、この大きな都市で最後まで希望を持って生きて行けると思っていた。私にはそれだけの力があるし、マヌエルという心強いパートナーもいるのだから、大丈夫。そう思っていた。

 だけど今、私の前には手に負えない現実と、絶望の海が広がっている。あの荒々しく美しい北の海ではなく、汚染され浄化の力を失った南の海。そして、狂気の圧政により暗く澱んだ街からは、毎日毎日汚泥と廃棄物、さらには人々の怨嗟の声がどぶどぶと流れ込んでいる。もうこの海は、この街は、二度と蘇らない。

 私は手首から立ち昇るスズランの香りをもう一度吸い込んだ。目を閉じる。懐かしいあの街が見え、高く広く青い空に鳴り響く鐘の音が聞こえてくる。もう何年も吸っていない、あの透明な空気が恋しい。

 「……ねえマヌエル。」
 「うん?」
 「早くここから逃げ出そう。私の国へ行こう。」
 「うん。」

 凪いだ海にはたくさんの船が、海を埋め立てるための船が揺蕩っている。早く逃げ出さないと、このままでは私たちも埋められてしまう。マヌエルは呑気だから、私が渾身の力を込めて、このヘドロの都市から引っ張り出さなきゃいけない。

 儚くも心強いスズランの香りに導かれて、私たちは航海に乗り出す。私の故郷を目指して。


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