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書くという行為について

私は文字を書くという事に対して色々と考えた時がある。比較的私は書くよりも話すという行為の方が楽であり、責任が少ないと感じるので好きである。話すこと自体を何かしらの記憶媒体に撮ってしまえば話はまた変わってくるのだが、今回はその点は考慮してほしい。
何が言いたいのかというと、話すことの方が自分としてはとても気楽であり、人との交流が確かに出来ていると素直に感じ取ることが出来るのがメリットに思えるのだ。書くことは一人でもできる、だが、話すことは一人ではできない、あくまでも他人との繋がりありきで完成していると言っても過言ではないように思う。(この場合は、対話のことを表している。)

そもそも私は、自分の書く文章が嫌いであった。昔から書いても書いても言いたい事の5分の1も表すことが出来なかった。自分でもなぜこんなに伝えることが難しいのかは未だ知る由もないが、少なくともいえるのは一人で何かしら考えることに苦手意識があるのではないか、と思うのだ。これは自己肯定力の低さとも関連付けられるが、まず自分に自信がないのだ。そのため、一人で何かをやっているときにふと「本当にこれはあっているのだろうか」「もしかしたら間違ったことをしているのではないのか」と急に不安に襲われるのだ。もちろん毎回ではないが、少なくとも新しいことを始めるときや、応用力が試されることを行う時は顕著に現れる。ここまでくるともはや癖としかいいようにない。

その点、何か人と話しているときは人の表情であったり、その人の言葉の表現だったりと沢山のヒントが提示されている。(中にはそれをつかみにくい人もいるのだが…。)話すときには、それらを見つけながら言葉の点と点を結んでいくような感覚で話している。そのため、かなり自分は話に冗長性がある。話しているときには多少なりとも書いているときと比べ、すぐに修正が効くし、その都度その都度フィードバックが返ってくる。
その点書くことは、いわば修行である。自分の内側と対話してそこから初めて言葉が生み出されていくような感覚に等しい。

昔はこの行為自体がとても耐えられるものではなく、自分を卑下していた身としては難しいものだった。だが、そんな自分が嫌で嫌でたまらなくなったのと、自分の師としている人へ一歩でも近づきたいという一心で、今はこうして書くことに慣らそうとしている。今でも正直違和感ではないが、「本当にこれでよいのだろうか」と自問自答しながら答えのない道を延々とさまよっている。一寸先は闇、正にこの言葉の通りである。この修行に私はこれから先耐え続けねばならない、もっと自分自身と対話し続けなければならない。話すことも対話のひとつではあるが、他人と全てを分かり合えることは不可能であることは分かり切っている。すがるものはもう自分しかいないのだ、足搔くしかない。滑稽に見えるときもあるだろうか、決して手を止めてはならない、これを止めてしまうとまた、自分が離れていくような気がしてならないのだ。

いつか堂々と書くことが出来る、そんな人物に私はなりたい。

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