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日本史論述ポイント集・近代⑨

今回は、昭和前期の政治について、満洲事変が行われるなか、五・一五事件によって「憲政の常道」が終焉を迎え、軍部の発言力が強まっていった状況を見ていきたいと思います。

政党内閣に対する風当たりは、慢性的不況(近代⑦参照)に対する抜本的解決を図れないことから強まっていきましたが、加えて、激動の中国情勢に対応できない協調外交に対する批判も高まっていきました。

1920年代後半、蔣介石率いる国民革命軍が中国全土の統一を目指し、北方軍閥への攻撃(北伐)を開始しました。

日本は、有力な軍閥の一人である張作霖を通じて満洲における権益を確保していましたから、北伐の開始は満洲権益を危うくするものでしたが、対中不干渉主義を堅持する協調外交は有効な手立てを打てません。幣原外相は「軟弱外交」との批判を受けます。

こうした中で、実力で満洲権益を確保しようとして満洲事変を企てたのが参謀・石原莞爾を中心とする関東軍であり、これに呼応する形で陸海軍の青年将校や右翼が国家改造運動を展開して、ついに犬養首相が凶弾に倒れたのです。

今回は、国内の動向と中国とりわけ満洲の状況との関連に着目して、理解を深めてください。


近代⑨・軍部の台頭

Q1 1920年代半ばに協調外交に対する批判が高まったのはなぜか?

A1

①日本は軍閥(張作霖)を通じて満洲における経済的権益を確保していた。

②しかし、北伐の展開に対して、対中不干渉主義をとる協調外交は無策であった。(軟弱外交との批判)


Q2 関東軍が満洲支配を目論んだ理由は?

A2

①満洲は重要な輸出市場であり、鉄・石炭などの資源の供給地でもあった。

②また、北方における対ソ・対中の防衛拠点であった。

③しかし、張学良が国民政府に合流し、国権回復運動が満洲におよびつつあったことから、危機感を高め(満蒙の危機)、軍事力による満州の中国からの分離を計画した。


Q3 治安維持法の変遷を説明せよ。

A3 

①1925年、普通選挙法の制定と合わせて、社会主義・共産主義の取り締まりを目的として制定された。

②1928年には、初の普通選挙で無産政党から8名の当選者が出たことに時の田中義一内閣は危機感を抱き、緊急勅令で死刑が追加された。

③1941年には、政治・思想犯は刑期満了後も予防のため引き続き拘禁できるとされた。(予防拘禁制)


Q4 五・一五事件と二・二六事件のそれぞれの政治的意義は?

①五・一五事件における犬養首相の暗殺を受けて、元老の西園寺公望は政党内閣の継続は困難と判断し、後任首相に海軍大将の斎藤実を推挙したことから、「憲政の常道」は終わりを告げた。

②二・二六事件では、陸軍皇道派が起こしたクーデターを統制派が鎮圧したことから、続く広田弘毅内閣の人事に介入し、軍拡の要求など政治的影響力を強めた。


Q5 1930年代前半の日本はどのような国際的環境の下に置かれたか?

A5

①満洲事変・満洲国に対する見解の相違から国際連盟を脱退し、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約も失効するなど、国際的孤立を深めた。

②為替相場の下落を利用して綿織物などの輸出を拡大する日本の動きに対して、世界恐慌からの回復のため排他的なブロック経済圏を形成したイギリスなど列国は、ソーシャル・ダンピングと非難した。

③石油・鉄などの戦略資源のアメリカへの依存度が強まった。


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