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日本史論述ポイント集・近代①

今回から近代へと入っていきます。

まずは開国と江戸幕府の滅亡についてです。

18世期後半、イギリスで始まった産業革命の波が、19世期前半には欧米各国(列強・列国)に広がると、大量生産された工業製品の市場と原料の供給地を求めて、アジアに進出してきました。

こうした中で、「鎖国」下でも長崎で貿易を行っていたオランダの国王は、1844年に開国を勧告する親書を幕府に送りました。そこにはこう書かれています。

「……蒸気船を創製せるにより、以来各国相距ること遠くて猶近きに異ならず……」

それから9年後の1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは、4隻の黒船(うち蒸気船は2隻でした)を率いて浦賀に来航します。そして、翌1854年、幕府は日米和親条約を結んで、外交政策を大きく転換するのです。

今回は、列強の接近と開国が、経済や社会、そして幕政にどのような影響を与えたのかを理解してください。


近代①・開国と江戸幕府の滅亡

Q1 18世紀後半以降の異国船の来航に、幕府はどのように対処したか?

A1
①再三にわたるロシアの通商の要求に緊張が高まるなか、文化の撫恤令を発して薪水の級を認めるなど、穏健策をとった
②しかし、フェートン号事件や捕鯨船の上陸などのイギリスの振る舞いに幕府は態度を硬化させ、異国船打払令を発した。
③その後、アヘン戦争で列強の脅威を知った幕府は、天保の薪水給与令を発して再度穏健策に転じた。




Q2 ペリー来航後の安政の改革は幕政にどのような影響をもたらしたか?

A2
○挙国一致体制をとって広く意見を求めたので、朝廷や諸大名の発言力が増し、幕政への介入を招いた。




Q3 貿易の開始によって国内の経済にどのような影響があったか?

A3
①主要輸出産業となった製糸業は、北関東の養蚕地帯を基盤にマニュファクチュアが発達した。
②一方で、イギリスから工場で生産された大量の綿製品が流入したことで、綿織物業や綿作は壊滅的な打撃を受けた。また、絹織物業も原料の生糸の不足から低迷した。
③在郷商人が商品を開港場の横浜に直送したため、江戸では物不足からインフレが生じた。幕府は五品江戸廻送令を発して対処しようとしたが、在郷商人と外国人商人の反発で効果はなかった。
④金銀比価の違いから金貨が海外に流出した。幕府はこれを防ぐため金含有量の極端に少ない万延小判を発行したが、悪貨の流通はインフレに拍車をかけ、民衆を苦しめた。



Q4 幕末のイギリスとフランスの対日政策の違いは?

A4①イギリスの公使パークスは天皇を中心とする雄藩連合政権を構想し、薩摩・長州の両藩を支援した。
②フランスの公使ロッシュは将軍徳川慶喜の改革に期待し、財政的・軍事的に援助した。




Q5 大政奉還の意図は?

A5
○朝廷のもとに徳川主導で雄藩連合政権を樹立することで、実権を握り続けるとともに、倒幕派の機先を制して名目を失わせようとした。




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