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日本史論述ポイント集・近代④

今回は、明治日本が戦った日清戦争・日露戦争という2つの戦争について見ていきます。

前回見たように、明治新政府は万国対峙を外交の方針に掲げました。それは、世界史的に見ると、欧米列強の主権国家体制の一員を目指すということです。

主権国家体制とは、互いに対等な関係で主権を認め合い、他国に干渉しないという国際秩序のこと。日本は、不平等条約を甘受しているわけですから、まだ一員として受け入れられていません。立憲国家を完成させ、産業革命も達成して、対等なパートナーとして認められる必要がありました。

一方、東アジアの各国には、伝統的な冊封体制からの脱却を求めます。そうした中で、朝鮮をめぐる対立から生じたのが日清戦争でした。

さて、主権国家体制という近代的な国際秩序は、勢力均衡によって成り立っています。大国・小国入り交じった微妙なバランスによって平和が保たれています。逆に言えば、そのパワー・バランスが崩れたときに戦争が起こるのです。

満洲・朝鮮をめぐる争い、それが日露戦争でした。

また、近代においては、戦争後に当事国同士が急速に接近することがあります。講和によって勢力均衡が回復されるからです。日露戦争後の両国がまさにそうでした。

このように、主権国家体制や勢力均衡といった世界史的な視点で見ると、日本が置かれた国際的立場もより深く理解できるはずです。


近代④・日清戦争と日露戦争

Q1 1870〜80年代、日本と清国は朝鮮をめぐってどのように対立していたか?

A1 

①日本は、日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させて以降、無関税特権を通じて市場に進出するとともに、閔妃政権と結んで影響力を拡大した。

②一方、清国は伝統的な冊封体制下での朝鮮に対する宗主権を主張し、大院君派と結んだ。

③こうした状況下で、朝鮮国内でも親日派と親清派に分かれて対立し、壬午軍乱・甲申事変と立て続けにクーデターが起こった。


Q2 福沢諭吉の「脱亜論」の内容とそれを主張するに至った背景は?

A2

①日清関係が悪化し、甲申事変を経て朝鮮国内における親日派勢力が後退する中で、日清朝三国が協力して近代化を進め、列国に対抗するという議論は現実的に不可能となった。

②そこで、福沢諭吉は日本だけが近代化を進め、列強の東アジア分割に参加すべきだと主張した。


Q3 日清戦争後にアメリカの対中国政策はどのように変化したか?

A3

①日清戦争後に列強が進めた中国分割に対して、アメリカは欧州の事態には不介入とするモンロー主義の立場を堅持して、直接は加わらなかった。

②しかし、1899年にジョン・ヘイ国務長官が門戸開放宣言を発表し、各国の勢力範囲内における通商の自由を要求した。



Q4 日露戦争前に、日本の対ロシア政策はどのように変化したか?

A4

①ロシアが旅順・大連を租借したことに対し、日本は韓国における譲歩を期待して協調に努めた(満韓交換)。

②しかし、北清事変を機にロシアが満州を事実上占領すると、日本の韓国における権益が脅かされることになったため、日英同盟を後ろ盾に実力で韓国権益を守る方針をとった。


Q5 日露戦争後、日米関係・日露関係はどのように変化したか?

①アメリカは、日露戦争に際して、ロシアの南下を阻止すべく日本の外債募集に応じ、講和も仲介した。しかし、戦後、日本が満鉄の共同経営案を拒否し、南満州権益の独占を図ろうとすると、門戸開放を求める立場から対立し、関係が悪化した。

②日露戦争は満州・韓国の権益をめぐる争いであったが、講和によって権益は確定した。戦後、満州市場に関心をもつアメリカに対し、日露両国は接近し、日露協約を結んで満州を南北に分割する利益線を設定した。



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