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日本史論述ポイント集・近代⑧

今回は、大正〜昭和初期の政治・社会について、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的な風潮を中心に見ていきます。

大正時代には、言論などの市民的自由や政治参加を求める声が高まりましたが、その背景として指摘できるのは大戦景気です。

第一次世界大戦にともなう空前の好況を契機として、都市への人口集中が始まります。東京・大阪などの大都市では俸給生活者(サラリーマン)が増加し、タイピスト・電話交換手などの職につく女性(職業婦人)も現れました。

彼ら/彼女らは洋風化が進んだ都市での生活を謳歌します。しかし、一方で、賃金の上昇が物価の上昇に苦しむ民衆も多くいました。

こうした中で、権利拡張や政治参加を求める声が高まり、日本労働総同盟・新婦人協会・全国水平社などの組織に結実していくのです。

そして、このような民衆の声は、第二次大隈内閣に対する圧倒的支持や原敬内閣の成立など、政治を動かす力となり、大正末年には「憲政の常道」の実現を見ます。

しかし、それは長くは続きませんでした。その大きな理由は明治憲法の特質にありますので、この後の解説をお読みください。


近代⑧・大正デモクラシーと政党内閣の成立

Q1 大正時代に社会運動が勃興したのはなぜか?

A1

①大戦景気によって都市人口が膨張するなか、賃金の上昇が物価の上昇に追いつかないなど社会問題が表面化した。

②米騒動によって政治を動かす民衆の力を自覚するとともに、組織的運動の必要性も痛感した。

③第一次世界大戦が総力戦として戦われたことから、世界的に国民の政治参加や労働者の権利拡張を求める声が高まった。


Q2 美濃部達吉の天皇機関説はどのような学説か?

A1

①ドイツで発達した国家法人説に基づき、天皇を国家の最高機関と位置づけ、憲法による統治権の制約を説いた。

②憲法に基づく統治権の運用のため内閣が意見を一致させて輔弼すべきことを説いて、政党内閣・議会政治を理論的に根拠づけた。


Q3 慢性的不況下に労働運動はどのように展開されたか?

A3

①大戦景気による労働者の増加や戦後恐慌による時短・人員整理を背景に、友愛会から改組された日本労働総同盟は、労資協調主義から階級闘争主義に転換した。

②慢性的不況下に労働争議が激しさを増すなか、労働組合・農民組合を基盤に無産政党が結成されたが、分裂を繰り返したため、勢力を結集できなかった。


Q4 第一次護憲運動と第二次護憲運動の違いは?

A4

①第一次護憲運動は、「閥族打破・憲政擁護」を訴える政党人の動きに、桂内閣が詔勅を乱発したことへの批判も高まり、都市民衆も加わった大運動となった。

②一方、第二次護憲運動は、超然的な清浦内閣に対して、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部が護憲三派を結成し、普選断行を訴えたが、選挙活動に終始し、後の治安維持法の制定に見られるように、無産階級の政治的影響力に対しては抑止的であった。


Q5 「憲政の常道」が8年足らずで終わった原因は?

①政党内閣は明治憲法上の規定ではなく、元老西園寺公望が慣習的に政党の党首を首相として天皇に推挙しているにすぎなかった。

②明治憲法下の国家機関は天皇に独立して直属していたため、権力の多重化が引き起こされ、内閣は軍部や枢密院の攻撃にさらされた。

③慢性的不況に抜本的な解決策を示すことができず、財閥との癒着が批判されるなど、国民の強い支持を得られなかった。

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