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「先生」という存在【2024年6月3日】

皆さん、こんばんは!

週初め。いいスタートは切れましたか?

この記事でも書いた、無くしちゃった帽子が無事見つかりました。ほんとうによかった。

心配をかけた皆さん、本当にありがとうございました!!!

そして、今日のテーマは「先生」という存在。

僕は、大学卒業後は小学校の先生になりたいと思っているわけですが、採用試験を無事にパスして、教壇に立てたからといって「先生」になれるわけではないと思っています。

僕がなれるのは、あくまでも「小学校教員」もしくは「小学校教諭」という職業でしかない。と。

そこから「先生」になれるかは、その後の子供たちや保護者さんとの向き合い方にかかってくると思っている。

僕が「先生」かどうかを決めるのは、目の前の子供たちやその保護者さんだからである。

今までの、学校生活で出会ってきた「先生」たちを振り返ってみると、

「先生」だと思える人
「先生」だと思えない人

は、やっぱりいるなぁと思います。

じゃ、「先生」だと思えるか思えないかの分岐点はどこにあるのか。

これはきっと、人の数だけ感性や価値観があって、答えは1つに定まらないと思いつつ、僕の中で、

大前提、「先生」に対するリスペクトは持っているという条件の中で、

「本気」であるか。
「自分」であるか。

この2つは大きな要素だと思ってます。

一つ目の「本気」である

なんでも許してくれる、生徒との距離が近い、優しい人はいたけれど、そういう人にはリスペクトはあまり感じにくい傾向があるなと思います。

学生の時は、甘えてしまうし、ゆるくていいなぁと思っていたけれど、のちのち振り返ると、特に印象には残ってないケースが多い。

叱ってくれる、厳しくしてくれる、というのはある種本気で向き合っている証拠なのかなと思います。

当時は、うるせぇなとかだるいなとか思っていたけれど、のちのち振り返ると意外と印象に残ってたりします。

二つ目の「自分」である

「教員」として、その立場としての意見や関わり方ではなくて、一個人として意見や関わりをしてくれる人。

「わたし」が介在していること。

「学校はこういう方針だから」とか「こういうルールだから」とか、そんな外的なものを主語にしないで、

「わたしはこう思う」とか「わたしはこう考えてるよ」っていう関わりが素敵だったなぁと。

となると、ほとんどの先生がそうだったと思うけど、自分のことを「先生は、、」で語る人が多いのは、今となっては違和感だなぁと。

「先生」としての意見じゃなくて「わたし」の意見が聞きたい。

「わたし」として向き合ってほしい。

「先生はこう思う」という、主語が「先生」の言い回しは、私は「先生」だから、先生の言うことを聞いてください、というニュアンスにも聞こえてしまう。

あくまでも、その人が「先生」かどうかを判断するのは子どもたちや保護者さんである。

なんか、似たようなことを過去に書いてたなぁ〜

少なくとも、僕が「小学校教員」になったら、「本気で向き合う」こと「自分として関わること」を意識したい。

嫌われる勇気を持って。

全員に好かれようとするのは、本気で向き合ってない証拠だと思うから。

小難しい話をしたけど、まだまだ自分磨きを頑張ります!!

今日も読んでいただきありがとうございました!

さて、明日のテーマは「勘違い」です!

どうぞ、お楽しみに!!


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