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「戦没した船と海員の資料館」に伺った日のふりかえり 10/25

交通費が若干安いので、河原町から阪急に乗る。
阪急では最寄りの花隈駅まで、十三駅で乗り換えを挟んで特急で1時間ちょっと。阪急に乗ることがめったになくなったから、乗るたびになんだか懐かしい気持ちになりながら車窓を眺める。特急だから人が多いかと身構えていたが、10時も過ぎて河原町を出発した特急は花隈に到着するまでさほど人は乗らなかった。

目的地までのルートしか確認していなかったため、降りてただタワー・ロードと呼ばれる通りを目指して電車で来た道を線路沿いに戻っていく。すると、何やら石垣が見えた。いやいやまさか……案内板もないし、石垣を模した何かだろう。いやいやそんなまさか。
…………
駐車場を通り過ぎて、上部に石樋が見えた。

間違いない。ここは城跡だ……!
知らん! Googlemapでそこまで見てなかった! そもそも神戸の城事情にいっさい詳しくない! これ何城! 当初約束していた時間までかなり時間の余裕がある。行くしかないじゃろ! で、何城よ!

現在は公園になっている

花隈城でした。
そりゃそう。君どこで降りたの。いやでもだって……。
ここから本当に公園てっぺんまでたどり着けるのか不安になりつつも、ゆるい坂をゆっくりと上がっていく。途中で鳩たちが「こちらだよ」と言わんばかりに先頭を歩いていく。

この鳩が案内上手だった

花隈城跡は現在花隈公園になっており、上がりきれば談笑中の人々や体操をしている人、何やら仕事をしている人などが思い思いに過ごしていた。公園内にある花隈城址の碑は1995年の阪神淡路大震災で倒壊しており、それを模造復旧したものらしい。

花壇がかわいい

その隣にまた、興味深い石碑があった。

「東郷井」とある。案内板によれば、2015年にここに移設、設置されたようだ。
神戸もまた造船のまちである。神戸小野浜造船所──ここで、初代戦艦大和は建造された。
「大和」って、呉の大和じゃないの!? とお思いの方もいらっしゃると思うのだが、違う。1883年に起工された巡洋艦のほうだ。
その建造監督官であり初代艦長が、かの東郷平八郎なのだそうだ。彼が神戸滞在中に使用していた井戸を記念して石碑を建立した(そして移設した)と説明版にある。
これから船にまつわる場所へ向かうのに、艦にまつわるものに触れるのは─しかも城跡で─なんとも奇縁だ。

最高

しかも帰り道には瑞風が通っていった。
改装中のポートタワーと瑞風のコラボレーション。この景色、すごくいいのでは──……?
思いがけず楽しんだ。来た道を戻り、また目的地を目指した。


今日向かうのは戦没した船と海員の資料館
コロナ禍を経て事前予約の必要な可能性がまだ残っていたのでメール+電話で連絡したが、現在は予約なしでの入館が可能とのこと。
ここに向かうのには、ふたつほど理由があった。
ひとつは、よく拝見している創作者さんたちが訪れ、表していた所感が気になっていたこと。この資料館の存在が、頭の片隅にずっと残っていた。
もうひとつは、私が歴史をえがいた創作物で戦時徴用船を取り扱う方針が定まったからだ(私は主に広島県の歴史をとおして創作物を─多少特殊な主役を通して─えがいている)。これが一番大きな理由だろう。そこで、私はこの資料館のことを思い出したのだから。

まず、稚拙な私の知識の範囲であるが軽く説明をしておこう。
「戦時徴用船」とは、いわゆる軍艦ではない船舶のことである。かつては客船、かつては漁船としてはたらいていた民間の船たちである。
そしてその船と船員たちは主に外洋への輸送のために軍に駆り出され─つまり徴用された。なかには軍艦に改造されたものもあった。
戦場では軍艦も船舶も何も関係ない。雷撃等で攻撃された。空爆を受けた。沈んだ。民間の船員が、漁師が、死んだ。調査によれば約6万人の船員が、あの戦争で死んだのだ。

資料館にはタワー・ロードから道なりまっすぐを進み、左に曲がってすぐ着いた。

よく見る画角

さて、ご存知だろうか。
この戦没船員数において、広島県は全国で2番目の戦没者数である。犠牲をただ数で語ることはナンセンス極まりないが、この数に意味がないわけではない。(なお、1番に戦没船員が多いのは鹿児島県。総合して3,746名が亡くなった。)
広島県が本籍地また所属である戦没船員は、資料館の「本籍地・所属別戦没船員調査表
」によれば、合計して3,427名
内訳としては、陸軍徴用船での戦没者が2,083名。海軍徴用船での戦没者が579名。陸軍配当・海軍指定船(特設艦船:民間船を徴用し、改造や武装をほどこしたもの)での戦没者が736名。それらに属さない戦没者が29名とある。
私は“この数に意味がないわけではない”と書いた。
それは何故か。何故、広島県が全国2番目の戦没船員を出したのか。そのうち実に2千名近くがなぜ陸軍徴用船であるのか。
理由は宇品港にある。

広島県──広島市には、宇品港があった。1894年の日清戦争により軍用港として重要なはたらきのあった宇品港だ。
※1932年には広島港に改称されているが、本記事では混乱を避けるため“宇品港”と表記する※
日清・日露戦争において宇品港は兵站の最前線となった。ここから多くの船を送りだす陸軍の一大拠点となり、広島はそのまま軍都として発展していった。
ここから、戦時徴用船も出航していったということである。
実際に館内展示では「宇品が集合地であった」という写真などが数枚展示されていた。

──とは説明したものの、じつは私がわかり、捉えられているのはここまでである。
船舶司令部があったり色々とあるが、実はまだ『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』さえ手を付けていない。
そして今回は広島のことを知りに、調べに来たのではない(いずれは結べるところを結びたいが)。
まず戦時徴用船がどんなもので、どれだけ被害が出て、どんな船が徴用され沈んでいったのか。もちろん、どんな展示があるのか。それを見に行った。
ここまでしか、わからない。ここまでしかわからないから、私はこの日この資料館を訪れたのである。知らないから知りに行った。
それが、「戦没した船と海員の資料館」を訪れた主目的であった。

何はともかく「ふね」というものに私は詳しくない。歴史上(私の場合は土地の歴史を描くにあたって)に登場する“ふね”というものを上辺だけ理解している。
種類、大きさ、それぞれの役割、軍艦でもわからなければ民間─たとえば客船でも─わからない。
だけど行った。
どこにも行かないより、何もわからないままネットの海を漂うより、ずっと確実だと思った。そして、それは正解だったのだ。
いちおう鉛筆とノートは準備していったのだが、館内は撮影可である場所が多く、案内に甘えてさまざま写真を撮影させていただいた。
知らないことが多い場合、とにかくわからなくても気になる単語を控えておくことが大切だと個人的には思っているのだが、手で書いているとどうしても漏れがあるし記憶があいまいになっていくことが多い。
実際にこうして記憶をさかのぼりつつ書くのに、表記の間違いがないかなど撮影した写真に助けられている。
そして、おそらく今後調べていくのにもこれらはおおいに役立つと思いながら撮影した。
有志による模型に、遺品や寄贈された品の数々。手紙。水中に沈む彼女らの写真。

何より、この資料館で最も目を惹くのは「第一展示室」にある、壁面に貼り付けられた膨大な写真のような、とにかく壁いっぱいの貼付物だろう。

それらはすべて、現在わかっている範囲の戦没した船の写真と名前と戦没者数の書かれたプレートである。
銀色に見える壁面を埋めつくすそれ(裏側の壁面にも並ぶ)は1941年から1945年にかけて沈んだ船と船員たち、そしてそれに関わる資料だ。名前、(どのようにうまれ)いつどこでどんなふうに沈み、何名戦没したか。なかには写真のない船もいる。
資料館を歩いているあいだ、ときおり資料館の方に声をかけていただいて少し話をしたり説明を受けながら館内を歩いた。
そのとき、「大きい船などは会社などもあるし、こうして写真が残っているのだけど、本当に小さな船などは写真が残っていなくて、プレートの下の方に名前などだけ書いてある」という説明を受けた。

私は「擬人化」というものを用いて創作表現を行っている人間だ。
その瞬間、その部屋が肖像画─もちろんその内容は惨憺たるものだが─が壁いっぱいに飾ってあるような部屋に見えた。進水した瞬間をえがいてもらったもの、仕事をしているところを誇らしくえがいてもらったもの、そして肖像画は残らずキャプションだけがさみしく飾ってあるもの。
物言わぬふねぶね。もう何も言えないひとびと。

犠牲を数で語ることのナンセンスさについて前述したが、だんだんと数にとらわれていく感覚がある。6万人という膨大さが、どうしても認識にのしかかる。
展示室のプレートの一枚一枚、すべてに目を通した。気になるものは撮影をさせてもらい、また広島に関連するものも撮影をさせてもらった。
しかしそれとは関係なく、一枚一枚、いつ沈没し何名が死んだのかを見て読んでいった。
それをずっと繰り返しているうちに、だんだんと感覚が処理的になっていることに気が付く。
名前、日付、戦没者数を頭で〈処理〉して読んでいる。それは、個人的にはいま行っていることとは真逆と言っていいほどのことだった。けれど、そうなっていた。
私はこの膨大なパネル一枚一枚を時間の許す限り上から下まで見て帰る。
だが、それが不可能だとしても、そのなかで名付けられた船をいくつ〈読んで覚えていられる〉のか。戦没者XXX名のXXXに、約6万人分のXXX人に、それがたった一人でも思いを馳せることができるか。想像力をわずかでも働かせることができるか、あるいはできていたか。

結論としてはできなかった。

途中からどうしても必死になっていたのもあるだろう。
徴用されていった船の名前が、第XX○○丸というものがわずかに増えていく。だんだん“数”の大きさがわからなくなっていく。沈んでいく。写真すら残らない消耗される船の姿だけが見える。求められ波濤に消えていく、それ以外見えなくなった。
その途中で別の会員の方とまた少しだけお話をした。ちょうど青函連絡船のところだったから「ここ(連絡船は)みんなやられてしまって」、「戦後もこんなに沈んでるんです。機雷があってね…」と、説明をいただく。
なんにも言葉にならなくて「そうですね」のほかに、何を答えたか憶えていない。

パネルが全面に貼られた展示室を見られる休憩スペースでもある椅子があり、腰を掛けた。
半分を見たときにも腰を掛けて一旦休んでいる。そのときに「名付けられたふねをどれほど覚えていられるだろう、記憶に留め置けるだろう
また、それに乗っていた何万人もの人間をどれほど憶えて……思いを馳せていられるだろう
」とだけupnoteに書いてあって、半分時点の私の心境が少し伺えた。途中の心境は、これを元手に思い出しながら構築している。
展示室外の右手スペースには全日本海員組合さん発行の「海員」の2023年発行のものが自由に持ち帰れたので、シースピカが掲載のものなど、いろいろと持ち帰らせていただいた。
資料館さんでは、他にもリーフレットなどを持ち帰ることができる。かならず持ち帰ってほしい。

資料館には「第二展示室」もある。第二展示室はもちろん戦没した船の展示や観音像の安置などもあるが資料が主で、たくさんの資料が書架におさめられたりしている。社史や船の一般書(かな?)も見えた。
真ん中には長机が設置されており、ゆっくりと読んだりすることができるつくりになっている。また、この展示室ではわずかながら復員船についても触れられており、ここでは広島について知りたいことがあったので大いに参考になった。
ここまでの閲覧で3時間半ほど経過していた。流石にまだなんの手がかりもない状態で資料を閲覧できるような時間的な余裕も、キャパ的な余裕もない。

はじめに声をかけてくださったスタッフの方が、よき頃合いとおそらく見計らってくれたのだろうまた声をかけにきてくれた。うまく伝えられたかわからないけれど、この資料館に来て良かったことを伝えた。
そのあとにわかに雑談になり、昨今の海員事情に、こちら側で言えば因島のことや音戸の渡舟がなくなってさみしいことなど、さまざま話した。コンクリート船の話ができたのもとても楽しかった。そうして、スタッフの方がお母様から聞いた話も交えつつそこまでして戦争を続けたことが今では解らないこと。こんな、漁船さえあの海に駆り出されて死んでいったこと。いろいろと、本当にいろいろと雑談をしながら、ゆっくりと出入り口へつながる館内の階段まで向かった。

そして、必ずまた来ますと約束をした。
実際にそのつもりではじめからここに来た。
けれど来たときよりもずっと、今度来るとき私はここに来るという意味をもう少しわかっていたいし、ここに遺されたものひとつひとつをもう一度確かめるために、また来たい。
何もわからないまま来た今日を塗り替えるためにまた来たいと思った。
ここに来てから、これからを考えることができる。私にとってはきっと最適だった。
来て良かった。
そして、必ずまたここに来る。


外はすっかり日が傾き始め、これから夕方が来ますよという空をしていた。
ついでなので、ポートタワーを見に行った。

工芸品のようにうつくしい

もうすっかり身体が見えている。忙しなく工事は続いていた。
そして観光客らしく「BE KOBE」の写真もちゃんと列に並んで撮った(笑)

もしかして……並んでるッ!?って声出そうになった

そうして、港の震災遺構を見に行った。
実は神戸のここに来るもう一つの目的だった。必ずここを見て帰ろうと思っていた。

観光客が多くいて、写真を撮ったり思い思いに震災の痕跡を眺めている。
私も写真を撮ったりなどした。そのうちに胸の中に渦が生まれてきた。この渦は、きっと涙になる。
頭の中で、あらゆる景色と経験が重なり合い、共鳴していた。

ここまでだった。今日の私はここまでだった。
修学旅行生ぽい子、海外の人、地元の人、いろいろな人をかき分けて駅へ向かう。
どこでも良かった。記憶から逃げてゆく。
今日やっていたことと真逆のことだ。
けれど、どうしても背中を丸めたかった。
どこからでもいいから電車に乗った。
それからゆっくりと帰った。

噛み締めることがほんとう多かった。
そして、向き合うことの難しさを再度痛感した。
痛いし、苦しいし、頭はまとまらない。私はどれだけ考えて、どれだけかたちにできるだろう。ことばにすることができるだろう。

だけれど、だからやはりまた来たいと、思った。

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