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反出生主義の話を聞くのがキツい

反出生主義についてを議論するのを耳にした。自分自身、考えたことはある。しかし討論というのは聞いていて疲労する。反出生主義を唱える人の気持ちが分からなくない。だからこそ苦しく、気分が悪くなる。

ニュースでネグレクトや児童虐待の報道があると産んではいけない人間だと思う。では、暴力を振るわず、子どもの未来を考えられる人なら良いかといえばそうでもない。子どもへ過干渉になり毒親になる人もいる。モラハラを行う人もいる。毒親やモラハラは本人の自覚がないケースが大半だ。そういった家庭環境であれば「死んだ方がマシ」と思うのも頷ける。

他にもいじめや生活が困難なほどの障害、貧困など「産まれなければよかった」と思う状況は多くある。子どもが産まれてよかったと思うかどうかは死ぬまで分からない。

先日、発達障害の両親から生まれた男性が「愚かな人は子どもを産まないでくれ」という記事を見かけた。彼は貧困家庭に産まれた。高等教育を受けられず、遺伝的に勉学が難しく、貧困から抜け出せない。結婚もできず孤独な将来が予想できるといった内容だ。

共感できる内容だった。わたしは運良く、金銭的余裕を持つパートナーと結ばれたが以前は家賃も払えないような環境にいた。たまたま女性として産まれ、たまたま友人に恵まれ、パートナーと知り合うことができた。自分自身の力で生き抜く力がないため、自身が社会的優位になれる子どもを産み、育てる自信がないから子どもは持たないと決めている。万が一パートナーが早くにいなくなれば、子どもに満足のいく生活を与えられないだろう。

しかし、この世には劣悪な家庭環境から逆転した人もいる。身体的、心象的障害と共に生きる人がいる。死にたいと思いながら今日を必死に生きる人たちがいると知っている。主義の押し付けはそんな人たちの人生を否定してしまう気がする。

また、自分もいつか自信を持って子どもを育てられるような「立派な人間」になりたいと思う。

「昔は頭が悪く、仕事も上手くいかず、将来は何も持たずに孤独に死ぬんだと思っていたよ」

笑ってそう言える自分になりたい。だから今、少しでもそんな未来に近付くためにできるがむしゃらになっている。空回ったり、思ったような結果が出なかったりすれば「やっぱり何をやっても駄目なんだ」「頑張っても苦しいだけだ」だと夜も眠れなくなる。それでも諦めきれず、同じことを繰り返している。

おそらく反出生主義の人々も同じなのだ。何をしてもだめで、上手くいかず、せめて同じ思いをしないようにと「子どもを産むな」と言うんだろう。

気持ちが分かるから苦しい。きっと「お前に何が分かるんだ」と言う人もいるだろう。そんな人々が報われて欲しいと願うことしかできない。自分には何もできないから。

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