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運動会のお荷物がおもったこと

たびたび、中学生の頃を思い出す。わたしは中学2年と3年のはざま、冬休みから学校が大嫌いになった。

当時所属していた剣道部をさぼった。体調不良という嘘はあっさりバレ、村八分にあった。その日から登校する足は重くなった。部活動はわたしの中学校生活のすべてだった。社会だった。

なぜかというと、クラスに居場所がなかったからだ。きっかけは運動会。クラス対抗戦だ。大縄跳びでわたしはクラスのお荷物になっていた。

そもそも、運動会なんて保育園児のころから嫌いだった。どんなに練習しても、足が早くなる練習術なんて番組を見てもわたしの運動能力は人より劣っていた。かけっこでグングン距離を離され、毎年泣きながら走っていた。

しかし中学校の運動会で大縄跳びが競技に加わる。感動した。何百回跳ぶ必要はないため疲れず、みんな揃って同じ動きをするため、運動音痴が目立たない。中学1年生のころは好きだった。

2年生の運動会は前述のとおり、だめだめだった。振り返ると位置を変えればよかったかも、とか縄をまわす役になれば、とか思う。しかし2年生のころのクラスメイトたちはトライアンドエラーをせず、ストイックにわたしに飛び続けることを求めた。

運動会当日。大縄跳びで他のクラスと大差をつけ負けた。その日からわたしの呼び名は「豚」になった。

それでも部活動は楽しかった。部員たちはクラスが違ったから、いじめに加担しなかったのだ。

それなのに、わたしは部活をさぼった。なぜたった1日、さぼってしまったのか。

部員も1年生のころさぼっていたから。休み明けのクラス替えが不安で苦しかったから。いちばんの理由は、部活動がわたしも求める環境から変わりつつあったからだ。外部顧問が加わり、それまで生徒主導で行っていた部活が顧問主導になった。

ただ仲間たちと練習したり、ふざけたりしたかった。部活動が友人と過ごせる唯一の時間だったから。会話をする時間も取れないほど過密なスケジュールを組まれ、疲れてしまったのだ。

新学期。もう学校なんて行きたくないと思い、親に休みたいと伝えても昼には担任と顧問が家へ迎えに来た。ちなみに担任はわたしを全校生徒の前で往復ビンタしたことがある。わたしなんてさぞ嫌いだろうと思っていたのに、3年間わたしを受け持った。

かくして、わたしは学校に絶望した。誰かにわたしの孤独を理解してほしかった。周囲のように、友人と遊んだり部活動に励んだりしたかった。

それから十数年たった。わたしは孤独ではないし、豚と正面きって呼ばれる機会はなくなった。当時を振り返っても、トラウマで発狂したりしない。

運動会も、学校行事に必要だと理解している。運動でクラスのカーストが決まるような年頃だ。勝ち負けにこだわるのも仕方ない。学業が得意な人、美術が得意な人がいるように、運動が得意な人がいる。スポーツをアイデンティティとする学生の活躍できる場が必要なのだ。

しかし、だからと言って許しはしない。加害した同級生はすっかり忘れているだろう。自分の幸福が誰かの犠牲の上成り立っていると気付かない愚鈍な人とは今後も関わらないと決めている。

また、子どもはつくらないとも。わたしのような運動音痴から生まれる子どもは同じ思いをするかもしれない。そんなことは真っ平ごめんだ。

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