【ひとはどこまで他者を傷つけていいのか:本論Part2】

〈あなたは/かれらはなぜ決して人を傷つけてはならないのか〉

判断基準が欠如している原因は二つある。一つは危機意識の欠落と自己尊重への手抜かりの複合だ。これは「赤信号でも交通状況を丁寧に確認せず渡」り、「人を殺してはいけないのは、人には人権があるからだ」などと法律遵守の回答を行う人に当てはまる。このような人は、他者を守るとか、目標を達成するという旗印で自分が傷つくのを厭わない。けれど振り返って冷静に考えてみれば、自分はボロボロだ。誰かに守って貰うしかないほどに弱くなっている。いつしか他者の重荷になっているのだ。そして、重荷は引き受ける意志の有無に関わらず、疑いなく担う人を傷つける。こういう痛み分けの連鎖が人間社会だと納得しているかもしれない。けれど、こういう人たちは自分を守らない。取り返しのつかない痛みを与えうる危険に気付かない。ゆえに、いつしか決定的に自らを、果ては他者を傷つける——この論理は予言となる、予言されたやがて至る地点を逃れるには、論理の網をかいくぐる必要があるが、残念ながら、危機意識が欠落していては、自己への尊重を手抜かっていたら、この重力を認識することは不可能であり、であるがゆえに予言は実現する。ゆえに、判断基準が欠落しているなら、誰も傷つけないよう、とりわけ自らを傷つけないように努めよう。


もう一方の側は判断基準のアウトソースに由来する。これは「常に信号を守り」、「殺した人にも大事な人がいるから」とか「人を殺せば穴二つ、自らをも損なってしまい、結果大事な人を守れない」という旨の回答者に適用される。このような人たちの判断基準委託先は、法律/規則、倫理/道徳と言われる。このような規範に完全に従うなら、原則的に他者を傷つけることはないゆえ、本来は「人を傷つけてはならない」と意識する必要はない。だが、現実はそうではない。完璧な規則などなく、また完璧な規則があったとして運用する側が無謬であることは不可能だ。ゆえに(規則が不完全であるため)十全に規則に従おうとも他者を傷つける場合があり(極端な例を挙げれば、マスク警察や不倫をした芸能人の炎上騒ぎ。一見完璧に正しい常識や理想もまた——「他者とわかり合おうと努力しよう」とか「人は誰かを愛するべき」——時に人を傷つける)、勘違いや思い込みから誤った規則運用を行い、他者を大きく傷つける(えん罪など、最たる例だ)。また、規則違反すれすれの行為で得意げに利得を稼ぐ、悪意に満ちた輩も跋扈している。このような現状は確かに現状である一方で、アウトソース先の判断基準は最もベターな選択肢であるとも言える。法律は千数百年の深い反省と考慮を元に作られ、社会秩序を維持する最優の手段であろうし、倫理や道徳もまた数百年、あるいは数千年という長い期間で人間社会が正常に継続するようにと、人と人との関わり/繋がりを整理している。そしてこの理想には無論、「誰も傷つけないように、誰も傷つかないように」という願いが込められている。そしてこの社会規範に従うかと言えば(盲目的/自覚的問わず)、これが正しいと感じる/考えている、あるいは従った方が得/楽だと見なすからだ。このような人たちが人を傷つけてしまう場合は以下の状況であるように思う。

① 注意の不足、あるいは誤認により、規則を逸脱した(不適切な行為を犯した:違法行為等)。

② 注意の不足、あるいは誤認により、適用すべき規則を誤った。

③ 注意も十分で、誤認はないが、規則そのものが不完全であった。

④ 他者を傷つける意図を持ち、規則を悪用した(not 逸脱)。

⑤ 他者を傷つける意図を持ち、規則を逸脱した(違法行為/反倫理的振る舞い/非道な行動)。


①の場合(注意不足/誤認による偶発的逸脱:善意)→人を傷つけないように気をつけよう。

②の場合(注意不足/誤認で、規則運用失敗)→人を傷つけないように気をつけよう。

③の場合(規則の遺漏)→人を傷つけないように規則を変えよう。あるいは規則を変えられないのなら、この一部分において独自の行動規範を設けよう。しかしそれを非難されたり、不完全な規則が余りにも沢山あるのなら、そんな社会集団とはおさらばしよう。別離が難しければ、やはり独自の規範を築くか、規則を変えるために努力しよう。

④の場合(規則の悪用)→人を傷つけるな。

⑤の場合(恣意的/能動的逸脱:悪意あり)→排除(逮捕/収監/処刑)されます。自由な生活を送れません。人を傷つけなければよかったのに。


以上、結局のところ言えるのは、「自らの判断基準を有していない、もしくは自らの基準に基づいて責任ある判断を下そうとは思えないのなら、決して人を傷つけてはならない」とだけだ。やや懸念があるのは、③(規則の遺漏)の際だが、この難局に出くわすことこそが、固有の判断基準を築こうという意志を生み出す契機となるのだろう。ともあれ、平和で秩序だった社会で幸福な暮らしを送りたいと望むのなら、あるいは「善くありたい」とか「得したい」とか「楽しみたい/楽したい」と思うのなら、基本的に社会規範に従うことに、つまり判断基準をアウトソースすることとなる。そして固有の判断基準を持たない/求めないという選択を結果的にするのなら(意識的/無意識的問わず結果自体を見よう)、価値を見出した存在のために、あなたは他者を傷つけてはならない。あなたの戦う相手は自分自身の弱さと脆さだ。誰も(自らすらも)損なわないよう、あなたは日々、自分の力を養いながら力の限り戦うのだ。

NO MONEY, NO LIKE