見出し画像

沼沢地にて 7/7


 やおら緩い風が流れて、広場に枯れ葉が集まってくる。気づけば、ドイツ訛りの英語が聞こえる。それは耳栓を抜いてゆくみたいにだんだんと大きくなってゆく。
「大丈夫かい、君? どうかしたのか?」
 絵に描いたように美しいドイツ人の夫婦が僕の目の前で心配そうな顔を向けている。僕は何度か頷き、彼らに謝る。二人は怪訝そうな顔つきを残したまま、僕の元を去ってゆく。
 ぼんやり辺りを眺めると、たくさんのダウンジャケットが行き交っている。カラフルな色合いで広場は華やいでいる。僕はもう一度門の上に視線を注いでみる。だが、空に向かって凛とした表情を浮かべる彼女はやはり彫像に過ぎない。むろん喋るはずがないのだ。全ては僕の独り相撲に決まっている。けれど、そのうっすらと開かれた口許《くちもと》には、答えを待っているわ、という言葉が乗せられている気がする。気がするが、もうその声が発せられることはないのだろう。だから彼女に向かって頷くことに意味はない。いつか争いを生み出すことのない愛を見つけるよ、と胸に刻むのもまた同じで、孤独な男のなれの果てを示すだけだ。
 手元が暖かい。右手がアールグレイの紙カップを握っているのだ。左手はドーナツが二つ残った袋を摘まんでいる。そう、これこそが現実だ。僕は低い土地にいる。手のひらを紅茶で温めながら、ドーナツをほうばっている。時代遅れの古びた外套を着てはいるものの、万を越える観光客のワンオブゼムであり、目的のない散策に明け暮れては羽を休める、翼のない名もなき男でしかない。言うまでもなく、愛について語る権利はないし、実のところ、語らう相手もまたない。
 だから僕は足下に目を向ける。物欲しそうな顔をした鳩たちが広場の人混みの中で器用に右往左往している。僕はチョコレートのドーナツ(穴あり)を二つに分け、片方を細かくチビチビと摘んで辺りに放る。鳩らは風に吹かれてバランスを失いながら、必死に駆け込んでは、小さな小さなカスをついばむ。どこから湧いてきたのか、さらに何十、何百と増殖し、まるでムーヴィースターのサインを求めるかのような興奮した様相でこちらに向かってくる。そう、僕は今、鳩界において、ちょっと話題のカリスマとなっているのだ。みんなが僕のドーナツを目指して、激しく衝突し合い、奪い奪われを無限に繰り返し、なんとか欲望を満そうとしている。カリスマの定義通りに、僕は古い秩序を破壊し、新たな秩序を創造することができる。遠くにドーナツを投げてみよう。すれば、ラッシュアワーが始まる。飛んだり跳ねたり歩いたり、忙しなくカスへと向かう鳩ら。僕の足下にはまだ僅《わず》かに欠片が残っている。だが、彼らの意識は新たなカスにのみ向けられている。この愚かなものどもが平和の象徴というのだから、創世記などお笑いぐさだ——世界を沈ませた長い洪水、それから四十日と一週ののち、僕の元には一羽の鳩がやって来る。鳩はドーナツをついばんでおり、そうして僕は地から水が引いたことを知る。
「僕がドーナツを好きなのは」とふと思いつく。「中心がないからなのかもしれない」
 きっと僕もまた鳩と同程度の知性しか有していないのだろう。新たに提示された方角へ、思考はまっしぐらに向かってゆく。なんたる平和!
「ドーナツは日本でもヨーロッパでも、世界中遍《あまね》く食べられている。つまり国境を払うほどの人気があり、また鳥類も好むようで、種すら越えると言える。ここに一つの結論が導き出せる——中身をくり抜こうと周縁を膨らませれば、魅力的な一個体足り得る。ドーナツは象徴だ。かつて人の中心には国や信条、誇り、そして愛があった。だが、アイデンティティの核心的役割を果たしていたそれら諸概念は、一方で下らない争いを引き起こす原因ともなってきた。ゆえに現在では次第、少しずつだが確実に解体され、取り除かれてすらいる(みんな大好き脱構築)——反動として、ナショナリズムが再勃興している。だが、ドーナツは超越する。そのおやつが教示するところ、中心など問題ではない。個性など不要だ。人はみな、空っぽでいい。何者でなくとも、きめの細かい生地たる精緻《せいち》な認識を練り上げ、有史以来人類の食生活を支えてきた酵母たる潤沢な想像力をちょいっと注げば、自らの外部に果てしなく広がる世界を膨らませ多元化することができる。知覚上のこの世界は平面的であり、記憶もまた一つ一つは語るに足るものではない。しかし、僕らは夢想する。空間だけでなく時をも円環状に束ね、立体的かつ重層的に膨らんだ世界を築くことができる。そしてその時初めて、人生は、無数の輝きを放つ万華鏡のように豊饒《ほうじょう》で、チョコレートのアイシングのようにほろ苦くも甘い物語となりうる。僕らはこの意味のない生を、そういう風な、美味しいドーナツを作るみたいに紡《つむ》いでゆくべきなのだ。つまり、結局のところドーナツは、来たる新たな時代に生きる人間が有するべき意識を具現してくれている。その中心を持たないスイーツは、空洞において、新たな意識に目覚めた人類の目指すべき理想を映し出しており、ゆえに食するものはみな、サブリミナルに感化されてゆくだろう。言ってしまえば、ドーナツは内部に、世界最高峰の美味しさのみならず、素晴らしい新世界をも詰め込んでいるのである。僕が本当に追い求めていたもの、それはこんなに身近に存在していた。ジーク・ドーナット! ジーク・ドーナット! ドーナツ万歳! ジーク・ドーナッ・・・」
 止まらない寝言を聞き流しながら、ドーナツの紙袋を折り畳み、外套のポケットにしまい込む。

 ランデンブルク門を抜けてゆく。見上げると青銅色の女神は青い空を背景に、陽を受けてキラリと眩しく光る。道は森の中へと伸びて行き、真っ直ぐ木々を裂いてゆく。緑は冬の寒さに枯れかけていて、薄着の枝葉を苛めるみたいに強い風が時折吹き抜けてゆくが、それは同時に僕の背中を押してくれている。塔を登れと急かされているのかもしれない、と何の気なしに思える。変わらず青い空には太陽がさんざめき、その溢《あふ》れんばかりの光は、遙か先に立つ一本の塔の天辺で反射しては、眩しい煌めきがこちらを照らしている。灯台みたいだ。旅行書を紐解けば、森はティーアガルテンという名前で——動物園を意味し、というのもかつては王家の狩猟場であったらしい——中央に立つ塔はジーゲスゾイレといい、普仏戦争の勝利を記念して建てられたそうだ。塔のふもとはパリの凱旋門と似た造りとなっていて、五本の道が放射線状に広がっている。だから塔の周囲はラウンドアバウトになっている。信号を三つ越えなくてはたどり着けない。立ち尽くす僕の目の前を、何十と車が行き交ってゆく。と、ふと見上げた先、戦勝記念塔の天辺に、彼女を認める。ヴィクトーリア。争いを運命づけられた、平和を希求《ききゅう》する勝利の女神。そう、僕は彼女に導かれてここに来たのだ。塔の上の女神は全身が金色で、強い陽射しに強く眩しい光を放っている。
 入り口で三ユーロを支払い、僕は塔の内部に入り込む。中は石造り特有の冷気に満ちた空間となっている。ベルリンの栄光の歴史が絵や写真、年表や模型の形式で壁を埋め尽くしているが、僕はそこに目もくれず、立ち止まっている観光客たちを足早に抜けてゆく。『エレベーターなし』という文字の掠《かす》れた張り紙が唐突に現れて、その先は螺旋状の階段が伸びている。もちろん、僕は階段を登ってゆく。
 一段一段がかなり分厚い。だが左右はひどく狭く——降りてくる観光客とすれ違うのは、ちょっとしたアクロバットだろう、依然として誰も降りてはこないからいいものの——どうしてかまるっきり窓がない。だから自分が今どの辺りにいるのか、まるで見当がつかない。どこか巡礼じみている。宗教的登頂。段数を数えてもキリがない。風景には変化がなく、息だけが上がってゆき、終わりは見えない。でも、僕はこういう種類の苦行がわりかし好きだ。それに慣れてもいる(多分、孤独に慣れているからだろう)。長い距離を走り切る時、僕は目的への意識を頭から排除する。だから似たような感覚で、段を進めている。もちろん、心の奥底では終わりの瞬間を只管《ひたすら》に待っている。けれど、一心に、ただ次の一歩を正確に、確実に踏みしめてゆくことだけを考えようと努めるのだ。すればいつか、自ずと扉は現れる。僕は自分の歩みに意識を十全に払いながら、片隅で、ドアを開いた先にある光景を想像する。そこは、半径二メートルくらいのドーナツ型の空間だ。天井は無い。強い風が吹きすさび、外套の襟と伸びすぎた髪は荒々しく僕の顔を鞭《むち》打っている。高い土地、そこは人が住むのに適していない。低い土地でのみ、人は満ち足りた生を送ることができる。けれど僕はそこに行きたい。抜けるような青空の元に広がる、美しいベルリン市のパノラマを一目見たい。塔の天辺から見渡す僕の足下にはきっと、ティアガルテンの淡い緑が敷き詰められているだろう。その北の外延はシュプレー川に縁取られていて、煌びやかな水面は優雅に蛇行しているだろう。放射状に伸びた五本の線分が人に車と絶え間のない往来で街に生命力を与えては、弾むその躍動感は、さらに先の先、陽の光に白く黄色く赤く霞む空の際《きわ》まで間隙《かんげき》なく、みなぎっている。街中に隈なく聳え立つ何千、何万ものビルディング。それはまるで勇猛果敢な大兵団のごとく、天へと驀進《ばくしん》してゆく街の旗印、雲を突き抜け、遙か宇宙にまで達してしまいそうなベルリンタワーを守る強固で頑丈な壁となっている。そう、一見、雑多な寄せ集めとさえ思えるベルリン市は、実のところは、全体として相互連関的に脈を打つ、一つの有機体だ。そのとてつもなく魅惑的で化物じみた街を、僕は高いところから意のままに見晴らす。そしてふと見上げれば、凛々しく儚《はかな》げで翼を持った女神が微笑んでいる。僕はそこで彼女に声をかける。でもなんて言えばいい? 愛について語る時に、僕はなにを語ればいいのだろうか。まず、僕は彼女の抱いた愛が間違いじゃないとちゃんと伝えるべきだろう。誰かを守ろうとする愛が正しくないはずがない。それはいつだって比類ないものだ。時に、結果として、誰かを損ねてしまおうとも。そして、だからこそ僕は、かつて本物の愛が実在したと証明するために、誰かを本当に愛さなくてはならない。それはあるいはユズであり、マキであり、あるいはそうでないかもしれない。だが、僕はいつか誰かを愛するだろう。その命を守るために、自らの命をなげうって戦うのだ。
 僕は延々と続く階段を登ってゆく。頂きを目指して。ふと、ベルリンの壁が頭によぎる。僕はそれを目にしていない。ベルリンの壁は僕が生まれる前に崩壊した。今もまだ幾らかが残されているとシンジがこの前言っていた。そして人々の間には、ベルリンの壁が建つ前から目には見えない壁が聳えていたと女神は言った。つまり今も壁はある。存在と存在の合間に。僕はそれを越えてゆきたい。だからこそ、塔を登り、海を泳いでゆく。

 と、やおら扉が現れる。僕は足を止め、息を落ち着けながら、ひんやりとしたノブを回す。
 そこは確かに、ドーナツ型の半径二メートルくらいの空間だ。やはり天井はない。頭上には透き通る青の空が曇りなく広がっている。けれど、やはり僕の期待は裏切られる運命にあるのだろう。ベルリン市の美しいパノラマなど夢のまた夢の夢、広がっているのは出来損ないの風景だ。展望台は一面、蚊帳《かや》に似た黒みがかった網で覆われている。また、鉄製のパイプと足場が周囲に設けられている。つまり、ここもまた工事中ということだ。だからだろう、人っ子一人いない。
 黒ずみ、網目状に区切られたパノラマ。これこそ、僕にふさわしいじゃないか。 
 やれやれ。
 どうして気づかなかったのだろう? 階段は唯一の通路であり、そこを降りてくる人が誰もいないなど、明らかに不自然だ。きっと、どこかに補修を知らせる告知があった。でも、僕は夢見心地のまま、勇んで進んできた。相変わらずの節穴だ。勘違いを原動力に意味のない移動を続ける。そんな僕に、愛について語る権利があるはずもなく、やはり、語らう相手もない。
「いつか僕は」と見上げれば女神がいる。目の痛むほどに光輝いていて、眩しさに耐えきれず僕は目を逸らす。「正しい愛を見つけることができるのかな?」
 耳を澄ませて彼女の声を探す。ごうごうとけたましく風が唸《うな》っている。

NO MONEY, NO LIKE