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沼沢地にて 5/7


 アレクサンダー広場駅もまた大きな駅だ。東京都心に匹敵するくらい人で溢れており、マクドナルドにバーガーキング、スターバックスコーヒーと、馴染みのある店舗が両脇にチェーン展開を繰り広げている。そこを抜け屋外に出ると、サッカーでも出来そうな位に広い広場が広がっている。どこか七十年代的近未来の観を呈している。くすんだ灰色の角張ったビルディングに囲まれていて、そこにドイツ銀行やザターン、その他見覚えのあるブランドが名を連ねた広告が数え切れないほど敷かれている。東京で言えば渋谷のハチ公前広場のようであり、ニューヨークならばさしずめタイムズスクエアと言ったところ。もちろん、渋谷ほどの交通量もスクランブル交差点もなく、タイムズスクエアほどの電子文字はない。だが通底するものが感じられる。ともすると、街の発展はあるいはコピーアンドペーストで形成され、方向付けられるのかもしれない。ちょうど、日本の街を歩けば誰がどんなファッション雑誌を読んでいるのか大方想像がつくように、ベルリンもまた、流れくる欲望の由来を街の様相が暗示している。
 ふと、路上で演奏をするラテン系の若い男が目に留まる。人混みを挟んだ先の高架下で、彼はアコースティックギターにミドルサイズのアンプを繋げてコードを鳴らしていて、周囲には百人に達するくらいの大きな人だかりができている。風に乗って微かに流れてくるギターのリズムはレゲエ調であり、ボブ・マーリーの影響を色濃く示している。近づくとマイクロフォンで増幅された歌声も聞こえる。少しハスキーだが男らしい図太い声で演奏されているのは、驚いたことに、レゲエとほど遠いビートルズの『ザ・ワード』である。

その言葉を口にしてみろ 自由になれるぞ
その言葉を口にしてみろ おれのようになれるぞ
その言葉を口にしてみろ おれが思っている言葉を

 自然と体を揺らしたくなるようなハイビートで、男は高らかにリフレインを歌う。そして彼が最後の一行を口にする前に大きく息を吸い込むと、聴衆は揃って固唾をのむ。男は目を閉じた恍惚とした表情で口を開く。

愛、って聞いたことあるかい?

 アレクサンダー広場の南東では、涸れた噴水を中心にした人々がめいめい憩っており、年齢、人種、党派と様々に、勝手気儘《きまま》で心なしかファッショナブルに、白い息を蒸かしている。群れをなす楽しげな男女。ロードレーサで集団を掻《か》き分けてゆく鋭い目をした若者。時折周囲を観察しながら黙々とノートにスケッチをするしかめっ面の老人。路上ライブの設営をしているらしき、あくびをしながら機材を整える鼻ピアスに黒のレザージャケットとパンキッシュな装いの男たち。子供連れの夫婦をコールマンの簡易椅子に座らせては似顔絵を描いている人当たりの良さそうな笑顔を浮かべる初老の男。革の顎紐が付いた金属のヘルメットを被り、深緑色の軍服に身を包む中年男は、芸人なのか政治家なのか、四方八方、きょろきょろと体の向きを変えては大きな身振りでわめき散らしては、しきりに通行人に絡もうとするが、人々はにべもない、みな軽蔑の眼差しで一瞥《いちべつ》するばかりだ。背の高い厚化粧の女が隣にいるが、十数秒に一度腕時計を確認するほかは何をするでもない。レトロで近未来風なウーラニアー世界時計の下には抱き合い口づけを交わす恋人たちがいる。愛を確かめ合う二人の脇を、数え切れないほどの人びとが過ぎ去ってゆく。立ち止まっているものと流れてゆくもの。後者はどこか似通ったシルエットだ——多くはダウンジャケットに身を縮こめている。みなは何を思ってこの場所にいるのだろうか? おしなべて見れば、人は挙《こぞ》って愛を囃《はや》し立てているだけなのかもしれない。よくわからない。
「愛を歌えば自由になれるのかな」と青い空に訊ねてみる。
 西北西には、橙《だいだい》色が美しく際立つ教会がある。地図で確認すると、それはマリエン教会、つまりドイツに来た身勝手な日本人男性が『舞姫』と出会う場所だ。急傾斜な三角屋根には背の高い青銅の尖塔が生えていて、真っ直ぐ天へと向かっている。背景には曇りない澄み切った青地が広がっている。だが、屋根の周囲だけは、教会が特別な力で引き寄せたみたいに薄い雲が集まって淡く白い緩やかな曲線が描かれている。アレクサンダー広場の西の方へと弧は伸びており、舞姫へのうっすらとした期待感で僕はそちらへ足を運んでゆく。

 人混みを横断し広場を抜けると、モダンな赤煉瓦造りの建物が現れる。建物は幅広く背が高く、影が反対側のビルまで伸びているため通りは暗く寒い。両側に立ち並ぶ枯れた木々もまた寒々しさを強めており、ヒリリと冷気が肌を刺してくる。陽を求めるようにして僕は何気なく振り向く。すると、左の空に一本の細長い銀色をした塔が光っている。足下、前後左右ばかりに気を取られて見落としていたが、アレクサンダー広場には、バベルよりもずっと洗練され、あるいは凝縮された、まるで宇宙との交信をしているかの様相で聳《そび》える塔が立っている。空の輪郭を辿れば、背の高い建物が何百と存在していて、それは確かにシンジが言ったままに、街に不思議な生命力を与えている。まるで高層ビルから放出される凄まじい熱量に歪《ひず》んでいるかのごとく、灰色の空の際《きわ》は揺らめいていて、澄み切った冬の空気には到底似つかわしいものではなく、どこか自分が季節を失くしてしまったのではないかという気がしてくる。だが薄暗い通りを歩いてゆくと次第に日なたがやってくる。すると途端に景色が開けてくる。広く美しい公園が現れ、高くまで水の跳ねた噴水を中心に、左右対称で小ぎれいな青々とした木々が敷かれている。いかにも欧風といった心和む空間だ。青い空の右側では尖塔が二本、僅《わず》かに顔を見せており、ベルリンテレビ塔を目にした後では、それは行儀のなった一卵性双生児みたいだ。ニコライ教会、というのが双子の塔が生えた元であり、その周囲は古いロココ調と思しき造りで統一された職人地区となっている。ふと気づけば、水場特有の生臭い匂いが仄《ほの》かに漂っている。が、それもそのはずで、ニコライ地区を抜けた先にはシュプレー川が流れている。岸からは北の方角に大きな聖堂が見え、玉虫色のドームを中央に一つと四隅にそれぞれ携《たずさ》えている。ガイドブックを確認すれば、それはベルリン大聖堂で、世界遺産にもなっているらしい。
 何の気なしに街を足を進めている。けれど、目にすることのできる建物はみな見るに美しく、そして頭上に描かれた空はあいも変わらず抜けるような青を湛えている。素晴らしい朝だ。
 ふとニコライ教会が目に留まる。そうだった、僕は元々、ニコライ教会をひとまずの目的地に歩いていたのだった。でも手近な風景にすっかり目を奪われて、忘れてしまっていた。もう、舞姫との邂逅《かいこう》地はベルリンタワーと同じくらい遠い。橙色の屋根ではまだ淡い雲の集会が続けられている。
 僕は直感に頼って、ニコライ教会に戻るよりも川を渡る方を選ぶ。歩道を北に進んでゆくと、脇に馬に乗った騎士が現れる。もちろん本物ではない、銅像だ。青銅色した彼は勇ましく馬に跨《またが》り、天へと真っ直ぐに十字架の旗を突き上げている。『上へ、上へ、さらなる上へ。空を突き抜け、驀進《ばくしん》せよ』。そんな口上が聞こえてきそうなくらい、像には躍動感がある。「テレビ塔と同じだ」と僕はふと考える。「規模もモチーフも全然違う。けれど、ベルリンはどこもかしこも天を目指している」。空の遠くを眺めてみれば、なんだか建造物の全てが、挙《こぞ》って同じ文句を告げているように思える。
『上へ、上へ、さらなる上へ。空を突き抜け、驀進せよ』
 ベルリンは上昇志向の街なのだ。上を目指せ、僕はそうけしかけられているのかもしれない。

 橋を渡っている。玉虫色のドームの細かな美しさが露わになっている。近くで見ると、自然に付いた汚れなのか人為的に塗られたのかは判然としないが、白い壁面の周囲が少し黒ずんでいる。だがそれは明るい陽光の中、陰影の働きをしては、聖堂の美しさを一際荘厳で重厚なものとしている。玉虫色のドームそれぞれは、天使や聖人と思しき精巧な青銅の像が立っている。素晴らしい建物だ、と心の底から思う。けれど、どこか白けた気分が拭《ぬぐ》えない。天国の実在に疑義があるからでも、古い建築に飽き飽きているからでも、橋が崩れないか不安であるわけでもない。あるいは、天を目指せと小煩《こうるさ》く熱弁する街の一切に嫌気がさしているからでもない。元凶はクレーンにある。それは赤黄青とちょうど街行く人たちの上着に似た明るい色合いで、また同様に街の至る所に見受けられ、どの位置で立とうとも、どんな角度で目を向けようとも、必ず視界はそれなしでいられない。仮に僕が愚にも付かない旅行者——美しい建造物に感銘を受けては写真を撮らずにいられないワンオブゼム——であったとして、構図を練りながら、旅の恥はかき捨ての意味をはき違えながら、奇妙な体勢で地べたに這いつくばりながら最高の一枚を得ようしても、努力はすべてが無に帰すのである。そう、ベルリンは、地上に地下にと大がかりな重機を張り巡らして、刻一刻と景色を変えてゆく。発展の止まぬ都市、ベルリン。その街は一枚の写真に留まってほしいという勝手な頼みなど、到底受け入れはしない。僕もまた、古い大聖堂のみに目を奪われている場合ではないのだろう。先へ、先へ、さらなる先へ、橋を渡って驀進しよう。

 街のブールヴァール、ウンター・デン・リンデンに入る。大聖堂の隣には、十八本の円柱が支えるギリシアの神殿風の建物がある。旧博物館と言われるらしい。名前と同様に、建物の正面に設けられた開放感のある空間もシンプルであり、小ぶりな噴水があるのみ、そこを中心に歩道が直線上に引かれ、合間に植えられた芝生は青い空と美しい色のコントラストを演出しており、あまりに整然としていてアレクサンダー広場の雑多な印象が嘘みたいだ。さらに通りを行けば、歴史博物館、国立歌劇場、フンボルト大学と、いずれも門から建物までに広い空間が設けられており、また建物は横へ広がりを見せていて、優美で伸びやかな雰囲気で溢れている。川を一つ隔てれば大きく様相が異なるのも、ベルリンという街の二面性なのかも知れない。
 ウンター・デンリン・デンを進むほどに、風景は開放感を強めてゆく。フリードリッヒ通りとの交差点を越えると片側三車線の車道は次第に二車線へ狭まっているが、一方で道幅は広くなっており、というのも中洲は緑地帯が設けられているためで——それは西に向かってじわりと広がってゆき、最終的に車道を食い尽くす——そこは数々の香ばしい匂いを放つ出店で賑わい、人々の憩《いこ》う目抜き通りとなっている。陽気な雰囲気に流されて、気づけば一面ガラス張りで昨日できたばかりのように清潔なパン屋に足が向いていて、五分が経つ頃、僕はまたもやドーナツを二つ手にしている。なんでかアールグレイも買っている。店先から左手の方角を眺めると、大きな門が目に留まる。奥行きのある六本の柱が支える、分厚いだけでなく幅も広い、威圧感ある巨大な門だ。上部には四頭馬車の彫像があり、中には勝利の女神が乗っている。彼女は、先端に鷲の留まった長大な杖を先に真っ直ぐ突き出した姿勢で、やはりこちらも彫像とは思えないほどの躍動感がある。門はブランデンブルク門という。女神は、ローマ神話における勝利の女神、ヴィクトーリア。僕はその足下でドーナツを食べようと思い立つ。門の周りは広場となっており、なぜだろうかパリ広場と名付けられていて、何百もの人々が歩き回っている。僕は脇にベンチを見つけると、そこで腰を落ち着ける。一時間以上歩き続けていたためだろう、疲労が途端にどっと溢れ出す。体からどんどんと力が抜けてゆく。見上げると、気ままな散策に熱中している僕を笑うかのように、女神が荘厳な様子でこちらを見下ろしている。僕はふと、せわしなく歩き続けた意味を考える。けれど何も思い浮かばない。ひどい眠気がどっとなだれ込んできて、頭がうまく機能しない。瞼が自然と降りてゆく。


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